神戸は、慶応三年に、開港となつたが、何がさて、和田岬の一漁村が急に繁昌の地と変じただけに、欧米各国の外人が続々と入り込んで来ても、現時の居留地は、その頃、「広ッ場」と云はれてゐたやうに、全くの草原で、住宅の建築にかかつても、その頃は、泊るにも旅館がないと云ふ有様で、諸外人は空家を探したり、間借りをしたりして一時を凌ぐ騒ぎ。それこそ、文字通りの内地雑居であつた。
それに、これら多くの外国人、又は従者のうちには、不身持ちの者も少くなく、殊に長い間の海上生活は、女性とさへ見れば怪しき所業に及ばうとするので、神戸の町では、日が暮れると、女と名のつく者は誰一人、外出せぬと云ふ警戒振りであつた。
丁度その頃、伊藤俊輔(後の博文公)が、神戸の専崎といふ料理店に食客をしてゐた。
専崎は、兵庫の魚善と並び称せられた旅亭で、当時、同地における紳士紳商の唯一の遊び場所で、今で云へば、高級の倶楽部であつた。
従つて、身分ある外国人も、この専崎に遊びに来るので、自然と伊藤公と懇意になり、専崎の主人とも心安くなつたが、幾たび外人と話しても、とどの詰りは、「日本娘の周旋を頼む」と、云ふのが落であつた。しかし、この相談には、艶福家と云はれた伊藤公も、苦労人で通つた専崎の主人も、閉口せざるを得なかつたのである。
それと云ふのは、当時にあつては、外人を相手にする女性が、神戸には全くなかつたからである。ところがその頃、この専崎に出入してゐた佐野常助(後の福原遊廓の設立者)といふ、勇み肌の男があつた。この常助は、宅にオチヤラ(一に惣嫁とも、十銭とも云つた最下級の売女)を七人も置いて、私娼屋を営んでゐたので、専崎からこの者に話し、玉代一夜一弗一枚(邦貨七十五銭)の約束で、オチヤラを出すことになり、諸外人も空腹にまづいものなしで満足してゐた。
明る明治元年に、食客の伊藤公が一躍して兵庫県令となった。すると、専崎で懇意にしてゐた英商館の支配人ホルトムといふのが、県庁(奥平野の祥福寺にあつた)へやつて来て、「伊藤さん、日本ムスノ世話する、よろし」と、直談判を持ち込んだ。
無作法の極みではあるが、この一事から見るも、当時の外人が、如何に性問題に苦しみ、オチヤラに不満であったかが知られるのである。
伊藤県令は、食客時代の友人であった遠藤金蔵に旨をふくめ、遠藤の世話で、肉屋に女中してゐたお紋といふ女を、ホ氏に取り持つた。
お紋が莫大の仕度金と、月手当を貰ひ、豪勢な風采をして商館通ひをするのが、神戸中の評判となり、お紋が通ると、「あれが洋妾だよ、洋妾お紋だよ」と、目惹き袖引いて噂したものであるが、幾月かの後には、第二のお紋となりたい志願者が、神戸の若い女性に尠くなかつた。