一、娼妓洋妾と処女洋妾

世間では、一口に洋妾と云つてゐるが、これには二つの区別があつた。

第一は娼妓(または芸妓)が、半月とか、一ヶ月とか期間を定めて傭はれるもので、即ち娼妓洋妾がそれである。

第二は良家の処女が、同じく期間を限つて抱へられるもので、即ち処女洋妾と云ふのである。

さうして、この間には外人を中心として、かなり激烈な競争があつたのである。

いつたい、横浜で全盛を極めた洋妾なるものは、その制度は、長崎のそれを真似たものである。

長崎には、二三百年も前から、外人の当妾となる者があつた。それは悉く、当時の遊女に限られてゐたが、和蘭屋敷に行く者、唐人屋敷に赴く者、更らに、稲佐に行く者を「ロシア遊女」と、称して ゐたやうに、洋妾の名こそなかつたが、事実は現存してゐたのである。さうして、これらの者を、俗に「仕切遊女」と云つてゐた。

尚この外に、「名付遊女」と、云ふのがあつた。これは、外人屋敷へは遊女以外の者は売笑を禁じられてゐたので、良家の娘たちが、何か據ろない事情で蓄妾となる場合には、かりに、遊女屋へ妓籍を置いて出掛けたので、かく称したのてある。横浜の洋妾制度は、概ねこれを学んだものである。

安政三年に、伊豆の下田へ来た米国領事(後に公使となる)ハルリスに傭はれたお吉、同領事の秘書のヒユースケンに抱へられたお福―この両人が洋妾の元祖だなどと云ふ者があるが、これは当つてゐない。この二人は、下田では元祖であらうが、長崎には三百年も前に元祖があつた。殊に、蘭医シーボルトの遊女其扇(ソノアウギ)の如きは、その代表的なものである。

横浜の娼妓洋妾の元祖は、桑名屋のお島である。お島は俗にいふ飯盛で、最下級の売女だつたが、安政六年に、神奈川の長延寺にゐた和蘭領事ポスルブルクに買はれ、泣きわめいて拒むのを、無理に因果をふくめて遣つたのが縁となり、馴染を重ねるうちに、遂に月極めの洋妾となつたのである。

しかもそのお島が、死んでも行かぬと嫌ひぬいたポ領事の許から、翌朝、嬉々として戻つて来た。「日本人よりは優しくつて、親切で、それは本当に勤めよい」と、吹聴したのは、単なる異人情調といふ精神的の満足許りでなく、お島は飯盛女とて、和人相手なれば、一夜僅に四百文の玉代しか得られぬのが、異人となれば、十二倍の二分(五十銭)の金が取れると云ふ―物質的の満足が与つてゐたのである。

当時の米相場は、一両に五斗であつた。二分と云へば、二斗五升買へたのだから、お島が悦ぶのも道理である。

さうして、お島一人の心は、やがて横浜全体の遊女の心であつた。否々、これこそ、天下綱を轡る女性全体の通念であらねばならぬ。

されば、明る万延元年に、同じ和蘭領事のポルスブルクが、今度横浜本町二丁目文吉の娘お長に恋慕し、一ヶ月洋銀百枚(邦貨七十五両に当る)の大金で、妾に抱へたいと申込むと、外国掛りの役人 が、遊女以外に洋妾となることを禁じたので、お長は表向き岩亀楼の抱へ遊女となつて、鑑札を受け、源氏名を長山と改めて、領事館に赴くこととなつた。これが、横浜における処女洋妾の元祖である。

それにしても、ポルス領事、一人で二つの洋妾の草分をしたとは、いかに日本贔屓の粋人とは云へ面白い話である。かくて永久に、我が洋妾情史に、汚名を流すこととなつたのである。

かうした次第で、後には娼妓洋妾と処女洋妾と対立して、競争するやうになつたが、外国人でも、売女よりは生娘を悦ぶのは人情で、後には、後者が前者を圧倒する発展振りを示すに至つたのである。