六、遊女は無税者で飯盛女は有税者

遊女が納税することは、夙に室町期から行はれてゐたが、江戸期に入るに及んで全く解消された。これは江戸幕府の名教政策が、遊女屋の主人を醜業者として特殊民扱ひした結果である。換言すれば室町期には良民として待遇し、江戸期では賤民として取扱つたのである。既に賤民である以上は、納税の義務を負はぬのが、当代の税法であつた。更に此の賤民たる楼主に抱へられ、使役さるる遊女が無税者であることは、当然の帰結であつて疑ふ余地はない。新吉原に二三の町役があつたのは、楼主の自発的冥伽金の意味であつて税金ではなく、従つて遊女の負担では無かつた。

それでは飯盛女を置いた街道筋の旅籠屋はと云ふと、これは立派な良民であり百姓であつた。中仙道本庄宿の旅籠屋規約のうちに、飯盛女の衣類、旅籠屋新設の制限、及び旅籠屋の百姓である事を記したものがあるので、左に抄録する。

旅籠屋仲間

一、旅人大勢有之、飯盛女子相互に雇合候節、衣類の儀は、木綿類に限り、帯の儀は太織紬絹之類にて、前懸為レ致目立不レ申様に可レ仕候、若不取用目立候儀有レ之候ハバ、雇合決して仕間敷候

一、(上略)旅籠屋致し候者、当時四十四軒に取極め、此末有何様旅籠屋願人有之候共、旅籠屋内には決して御願出申間敷候、若休株之者出来候迚、願出候有レ之候共、御役元之御差図請可申候

一、旅籠屋飯売下女銘々抱置、渡世致候し候も、百姓の儀に御座候間、農業専一に相勤不心得無之様に可仕候云々

文政三年六月(以上「徳川時代の武蔵本庄」所載)。

飯盛女の服装や、旅籠屋の新設が、どこまで励行されたかは間題であるが、良民であり百姓であると云ふ点だけは、身分上に関する事だけに、変更があつたとは想はれない。従つて営業としての旅籠屋に抱へられた彼女達であるから、多少とも納税を課されたのは不思議でない。前引の「名古屋市史」風俗篇に、

熱田にて遊女を置きし事は、寛政十二年の頃なり。即ち熱田前新田を開くにあたりて、築地にオカメと云へる売女を置きたるが遊女の始めとなれり○中略 文化三年伝馬町、神戸町、築出町等の旅籠屋に、各二人宛の飯盛女を置くことを許さる。此飯盛女を総てオカメと云ふ。招かれて他に宿するもあり。此頃衣服は上著更紗縮緬、下著紫縮緬、帯は厚板、根上りに髷を結ひたるを彼等の風とせり○中略 従来取立たりし飯盛女の税金は詳ならずと雖、嘉永二年より五ヶ年平均の熱田及び鳴海両駅の、飯盛女の集銀百拾八両なれば、略々其高は推定し得らるべし云々。

熱田は名古屋と云ふ大城下町を控へてゐたこととて、間の宿の飯盛女と違ひ、服装等も一段と綺羅を飾つたものと想はれるが、実際にあつては他地方でも、制規の木綿物では無かつたのである。これに就いては幾つかの例証を挙げることが出来るも省略する。更に税金の賦課法に就いても、詳しい事は知れぬが、これも間の宿の彼女達よりは重かつたものと見て、差支ない様である。また前載の「徳川時代の武蔵本庄」にも、下の如き記事が載せてある。

飯盛旅籠屋は飯売屋ともいひ、飯盛下女を雇ひ置くことを公許され、貸座敷業を営むものなり。飯盛下女は大小名通行の節、給仕せしむるために公許されたるものなりしが、享保三年の令により、定員二人(一軒)にして手助け二人を抱へ置くことを許されしも、実際は十数人に及び、定法四人の制は行はれず、飯盛屋の数は宿全体にで五六十軒の多きに及べり。

飯盛屋は仲間を設け行司を選び、玉銭と称して抱女の数に応じ玉銭を集め、往還入用助成に充つ。但し壱町飯盛屋二十七八軒にて行司三人を選び、飯盛下女一人につき二十五文の日掛をなし、行司これを預り、上納すべき金額を定む云々。

然るに是れとはやや趣きを異にし、売女に伝馬用の馬匹を飼養する料金を出させた所がある。近刊の「越後国刈羽郡案内」に、

柏崎の遊女は、寛政四年に松平定信より改革の命下り、旅舍一軒に飯盛女二人と定めらる。然るに文化十一年に又々命下り、売女とて其町方へ奉公なくては叶ふまじとて、宿馬八匹を飼養 する宿役を納むることとなり、更に文政十年改正ありて、飯盛女を抱へ置く者へ宿馬十五匹を飼はせる宿役を勤めさせたり(摘要)。

飯盛女を一軒二名と制限したのは表面のことだけであつて、事実は行はれなかつたものと見える。それにしても現在の亀戸や玉の井で、同じく定員二名と限つてゐるさうだが、その理由は古い飯盛女に学ぶところがあるのか、それが聴きたいものである。