五、侮る事の出事ぬ飯盛女の勢力

私の郷里である栃木県足利郡梁田村役場の旧記に由ると、梁田宿へ飯盛女を許可されたのは、天明年中に例幣使の伝馬御用を申付けられた、その代償として公辺の免許を得たと云ふことである。そして斯かる事由に類した例は、他にも相当ある事と思ふ。幕末に甲州街道の宿々に御用金を仰せ忖けしに、宿々では御用金の半額は即時に納め、残り半額は或る期間後に納めるが、その代償として飯盛女を置くことを許可せよとの願書を出してゐる。実際、特殊の産物もなく山水の風景もなく、僅に往来の旅人を唯一の顧客とした、街道筋の間の宿にあつては、売女を置くことが土地繁栄策としては最も簡単であつて、而も最も成功する方法であつたに違ひない。従つて街道筋の宿駅では自分の方から進んで伝馬なり助郷なり、又は御用金なりを負担して、その交換条件として飯盛女の許可を得ることに狂奔したのである。今から考へると全く不真面目極まる事ではあるが、明治大正になつても各地で、三業許可を得るために熱走する有様とて、余り昔を笑ふ訳には往かぬのである。

内藤新宿は古く飯盛女が許可されてゐたのであるが、或る事件のために取消され、後に再許可されたのであるが、此の間の消息に就き「江戸砂子補正」に左の如く載せてゐる。

内藤新宿、旅籠屋昔在りし処、享保五庚子年、四谷大番町四百石両御番、内藤新五左衛門舍弟大八○中略 新宿に遊行し、売女貰ひ引の出入にて、信濃屋の下男に打擲されて帰る。新五左衛門立腹して大八に腹切らせ○中略 其首を大目附松平図書頭乗国方へ持参して、右始末に忖弟大八成敗申忖け候、此上私知行可二差上一之間、永代内藤新宿御潰被レ下候様に奉願、即及二言上一新宿永代被レ潰たりしより、五十三年を経て明和九壬辰年、山師ども願に付、新宿見取御年頁黄金十六両一分、外に冥伽金五十五両毎年上納、大目附池田筑後守、御勘定奉行安藤弾正少弼掛りにて被二仰忖一、右古来之通旅籠屋五十二軒、飯盛女百五十人御免云々。

此の事件は売笑に寛大であつた江戸期としては、先づ珍しい英断であつた。それにしても安藤弾正が、曩に品川の売女を増員し、後に新宿の再興を許したのは、よくせきの売女好きのやうにも思はれるが、これも時勢に余儀なくされた施設と見るべきである。

文政年中の事であるが、古くから「岡崎女郎衆は良い女郎衆」の俚謡で知られた三州岡崎にも、此の種の運動のために籠籠訴までした事件があつた。由来、岡崎宿は江戸期の初めから飯盛女を許されてゐたが、それは纔に上伝馬町の旅籠屋だけに限られてゐた。然るに本多候が入部してから多大の繁昌を来たしたと同時に、他の町内にある旅籠屋が売女を置く同業者の利潤の夥しきことを羮み、何とかして下伝馬町にも許可を得ようと戸田彦兵衛、吉野屋栄五郎の両人が総代となり、度々その筋へ出願したが毎に却下されるので、遂に妓主本多候の外出を路に邀へて籠籠訴に及んだ。差越願は国法の禁ずる所、かかる無謀の挙に出たこととて、許可されまいと思ひの外に、飯盛女不足のためと云ふ理由で、新規二十軒限り免許されたが、それでも国法は紊されぬとて戸田・吉野屋の両名は、此の罪で青竹百日じめの逼塞の科に処せられて事済み、岡崎女郎衆の勢力も加はり、土地も繁昌したと云ふことである。

然るに是れにも増して露骨な事件は、信州善光寺宿(現今の長野市)に隣接せる権堂村(現時は長野市に編入)に、飯盛女を置くに至つた顛末である。全体、善光寺の門前町として発達した長野市は、弥陀の俗信が普及するにつれ各地よりの参詣者も加はり、殊に地の利が北国街道の要路を占めてゐたので、江戸期に入ると異常なる殷賑を呈するやうになつた。そこで権堂村の山気のある者が、始めは水茶屋の名で隠し売女を置きしに、それが追々と猖んになつて来て、嘉永二年には売女屋三十五軒、此の抱へ飯盛女百九十八人の多きに達し、旅人を宿泊させて風紀を紊す上に、荐りに善光寺宿の旅籠屋の顧客を奪ひ生活を脅すので、当時、権堂村を預り地として支配してゐた松代藩主真田侯に、取払ひ方を屡々願ひ出たが聴き届けてくれぬので、同年五月に善光寺大門町の年寄八郎治、徳兵衛の二人が総代となり江戸に出て、真田侯の登城をうかがひ駕籠訴した。然るに藩吏は出訴人を始め是に加担したと云ふので、善光寺宿の旅籠屋の主人を悉く捕縛した為めに騒動が大きくなつたが、翌三年十一月に扱人が現はれ、(一)権堂村の飯盛女の人数を減ずる事、(二)旅人、参詣人、市場商人等を止宿させぬ事、(三)善光寺宿助成として年金三十両づつ差出す事の条件で示談したとある。駕籠訴を したり所罰されてまで飯盛女の許可運動を敢てするなどは、今から考へると非常識の行止りであるが、当時にあつては土地繁栄策として唯一の方法であつた為めである。それにしても飯盛女の勢力もまた侮ることが出来ぬのである。古いやつだが川柳点に「飯盛も陣屋位は傾ける」とあるのが想ひ出される。更に「名古屋市史」風俗篇に収めたる「伊藤直之進上書」に、天明寛政の交に尾州熱田の飯盛女を再興せんとて、金百両を御為金(冥伽金)として藩主徳川家に差出せしに、同家では却つて金百両を下賜して飯盛女を禁止したのは、売笑政策を誤つたものであるとの意見が詳細に述べてある。売笑取締は昔でも今でも厄介な問題たることは失はぬのである。