大近松の「丹波与作」小まんの述懐に「かうした勤め様々あれども、君傾城と云ふものは此の類での王様、それから段々あるうちに、出女(オジャレ)の身には何がなる。朝の夜るから見世ざらし、昼休みから泊りまで、葦原雀の啼くやうに、息のありたけしやべつて、それでも泊り人あることか。どうした事やら此の頃は一膳盛の客さへない」とある。成る程、一回の労働に対する一回の報酬と云ふ立場から見れば、傾城も出女も、更に遊女も飯盛女も、共に同じ勤めであつて、労働の本質には少しも渝る所が無いのであるが、併し単に是れだけで両者に区別は無いとは云へぬのである。さうだとすれば官許の遊女と黙許の飯盛女とは相違は何処に在るかと云へば、それは種々なる視角から観察することが出来るのである。
此の事は余りにも顕著なることとて深く言ふを略すが、併し両者の社会的地位や待遇も、此の一事が総ての基調となつてゐたことは、注意せねばならぬ要点である。そして全国二十五ヶ所だけの遊廓に在る者は公娼であるとせられ、五街道に勤める者は黙許された私娼であつた。
江戸期に入り人身売買が制禁され、寛永十年七月に「男女抱置年季拾ヶ年を可レ限、過二拾年一ハ可為曲事」と規定したので(仰し此の規定は後に緩和された)遊女も俗に「年一杯」と称して十八歳から二十七歳までと、年季を十年に限るやうになつた。これに反して飯盛女には、別段に「年一杯」と云ふやうな定めはなく、己がじし三年なり五年なりを期限とした。そして両者の奉公条件には、別段に取立てて云ふ程の相違は無いが、ただ其のうちで奉公中の衣類の負担に就いて異る所がある。詳しく云へば、遊女の服装費は自分持であつて、これを水金(ミヅキン)(身忖金とも書いた)と称し、前借金の中から幾割かを控除して是れに充て、その後も奉公してゐる間は、一切の衣服費は自弁するのに反し、飯盛女の衣服費は、形式だけでも抱主の負担と云ふことになつてゐた。左に是れに関する両者の年季証文の要旨だけを抄載する。
年季証文之事
はつ(十八)
右之はつと申す者、芝高輪北町五人組持店金兵衛之娘にて、貴殿方に今般二十七年一杯之暁迄、金子百弐拾六両にて御抱被下、水金として金三十六両御渡被下慥に請取申候、跡金之儀者人別と引換に可致候○中略
文化七年十月(親元請人家主略)
宿並旅籠屋飯盛奉公人請状之事
一、吾等近年勝手不如意に忖、当御年貢御上納に差詰り、実娘なかと申す者○中略 宿並飯盛奉公に被御抱辱奉存候、則年季の儀は当寅九月六日より来卯十二月大晦日迄、丸十三側年四個月、給金三両二分と相極め、則手形調印の上不残確請取、御年貢御上納仕候処実正に御座候○中略 年季諸借金買懸の儀も、此方一切致不申、四季せの儀は夏冬両度一枚宛、御家風通御為取被下候○下略
慶応弐丙寅年九月(実親請人本人略)
身売奉公と年季奉公との差別に就いては、更に溯つて室町期の奉公制度から説かぬと、所詮は私の独り合点に陥つてしまふが、今は大略にとどめて置く。猶私は最近に沼津市の菱屋(妓楼?)所蔵の「諸文用例控」一冊を入手したが、これに道中筋の傾城、食焼、食売、勧進小船女(売女?)等の各年季証文、及び副証である請状まで載せてあるが、茲に是等を引用して比較考証を試みることが意に任せぬので省略した。
遊女の源氏名とも云ふべきものは、古く平安期に見えてゐるので、その起原の遠いことが知られる。そして是れには如何なる名を択むとも、殆ど随意としてあつたやうに考へられる。然るに是れに反して飯盛女の名には制限があつて、必ずしも任意に択むことは出来なかつた。最近畏友の樋畑雪湖翁が発見された「上大崎村名主竹内小左衛門帳」に載せた、明和二年八月道中奉行安藤雅要が品川三宿に、飯盛女五百人を許可(此の事は既記を経た)した申渡書の一項に左の如くあると報告されてゐる。
一、売女名前の儀ハ、以呂波四十八文字を上下、下上と繰返し忖候様被仰渡候(社会経済史学四ノ五)。
そして此の制規は、独り品川三宿だけに実施されたものか、それとも道中奉行の支配に属する五街道に対して励行されたものか、寡聞の私は是れ以外の耳福に恵まれてゐぬので、余り口綺麗の事は云へぬけれども、恐らく五街道の飯盛女に対して一体に行はれたものと見て、差支あるまいと考へる。
まだ此の外に、遊女と飯盛女との差別として、(一)着衣に就いて、(二)人員に関して、(三)住所に就いて記すべき事が残つてゐるが、此の三者は誰でも知つてゐる上に、後段に於いて多少とも触れる所があるので茲には省筆する。