三、飯盛女は五街道に限られた

全体、飯盛女なる者は、道中奉行の支配に属してゐて、東海・中仙・甲州・奥州・日光の五街道に限り、此の名を以て呼ばれてゐたのである。従つて「近世風俗誌」に記した如く、飯盛女の名称は「山東のみ称レ之、山西には此言無レ之」を原則とした。蓋し此の山東山西の区別は、箱根山ではなくして逢坂山ではあるまいか。そして飯盛女が道中奉行の管轄であつたことは、前引の「聞伝叢書」巻九に明証がある。

食売下女之事

是は五海(ママ)旅籠屋には、食売下女差置候儀は、御法度と申筋にも無之、通例の食(ママ)売は差置候ても 不レ苦候、尤千住、品川、新宿、板橋の類は表立候共、其余の宿々は内々の事に候、口書等に認候にも、酒の相手として食売下女召呼仕と認候位は不レ苦事に相聞候事、但五海道は東海道、中仙道、日光道中、甲州道中、水戸道中は松戸迄、佐倉道は八幡迄、其余は脇往還に准、道中奉行掛に無之事

本文に奥州道中落有レ之、白川迄は五海道の内、道中奉行掛りなり(同上本)。

此の記載に由つて飯盛女なる者が、(一)五街道の旅籠屋に限り許されてゐたこと。(二)幕府の公認では無いが黙認した、半公半私の地位にあつたことが、明確に知られるのである。それでは五街道以外の地―即ち江戸府内及び其他の地方では、此の種の売笑婦を如何なる名で呼んだかと云ふに、越 後では本場者、伊勢では出女と称してゐた。更に暗娼の俚称に至っては、五街道のうちでも其の地方限りのものが、実に十百も啻ならぬほど多く存してゐたのである。

猶この場合に并せ考へて見なければならぬのは、同じ五街道にあつても所謂「天下御免」の遊廓に居て、集団的の售笑を営む者は、飯盛女と呼ばずして遊女(又は傾城)と称した事である。前掲の「近世風俗志」に「東海道五十三駅にて官許の妓院あるは、駿府(静岡市)の弥勒町のみ、其の他飯盛女 なり」と断じたのは、大津市の馬場町を逸してゐるが、蓋し此の意味を言うたものと察しられる。併しながら此の一事は、江戸幕府の対娼政策の弛緩するに伴ひ混乱を生じ、彼の「風来六々部集」の吉原細見里のをだ巻にある如く、江戸にあつても「岡場所の土娼共に大造(タイザウ)なる名をつけて、二人禿座敷持、歩るきもしつけぬ道中」までするやうになり、地方にあつては遊女の傾城のと(此の事は後段に 記す)思ひあがるやうになつた。因に官許の遊廓は全国で二十五ヶ所あつたが地名は略す。五街道のうちでは既記の駿府と大津の二ヶ所だけであつた。