飯盛と云ふ名は、恐らく江戸期になつてから、生れたものと考へる。そして此の名は古くは俚称であつて、幕府の公文書には「食売女」と認めるのを習ひ(多少の例外はあるが)とした。そして此の食売の名が、いつ頃から称へ始められたか判然せぬけれども、品川宿の遊里の沿革を記した「温故見聞彙纂」の一節に、
徳川氏入国以後、慶長六丑年彦阪刑部、大久保十兵衛、伊奈備前守巡見の砌、東海道外宿々一同駅場認可以来宿次相勤め、旅籠屋渡世並売売女差許したるなり云々。
と載せてある。これに由ると食売女の名は、夙くも慶長年間に称へられたやうであるが、此の事は他に用例も見えぬし、且つ編者の追記と想はれるので、単に是れだけでは信憑することは出来ぬ。却つて幕府の公文書には「隠売女」又は「ばいた」とのみ記して、全く食売女の名は書いてない。西鶴の「一代女」巻六、旅泊の人詐の条に「食焼下女も見るを見まねに色つくりて大客の折ふしは、次の間に行て、御機嫌を取、是を二瀬女(フタラセメ)とはいふなり」と載せてゐるが、これは炊事婦の内職であつて、私が茲に謂ふ飯盛女とは本質を異にしてるる。更に大政松の「丹波与作」小まんの述懐に「此の頃は一膳盛の客さへない」とあるのは、飯盛女の在ることを踏んまへての書き振りと想はれぬでもないが、徴証とするには薄弱だと考へるので今は採らぬ。
それでは、いつ頃から食売女の名が、信用すべき文書に現はれたかと云ふに、寡見に由ると、やや時代の降つた明和年間からではないかと考へる。即ち「聞伝叢書」巻五に、左の如き記事がある。
品川千住板橋宿飯盛人数定之事
池田筑後守 安藤弾正少弼 明和元年八月七日申渡○以下略
一、品川三宿(私註。南北及び歩行新宿)旅籠屋共食売女多人数抱置、去る己(私註。宝暦十一年)十一月御咎被仰付候処、一体品川宿は泊旅人は少候得共○中略宿次御用其外宿送等之取計ひ多く、或は江戸入人継馬戻之稼無レ之段無二相違一、外宿には格別之営を以、是迄食売女南北品川共旅籠屋壱軒弍人ヅツ、歩行新宿は壱人ヅツ御定法に候処、以来本宿新宿共無二差別一、並壱軒何人と不レ限、品川三宿に食売女都合五百人迄は相抱可レ申旨被二仰渡一候一、板橋宿千住宿も泊旅人之介成少く、宿次御用宿送等の取計多○中略地主ども困窮に相成候段無紛に付、是又品川宿に准じ、格別の思召を以只今匙本宿壱軒弍人ヅツ、新宿壱軒壱人ヅツの処、以来食売女一宿に都合百五十人ヅツ匙は、相抱可レ中旨被二仰渡一候云々(日本経済大典本)。I
これに由ると幕府では、飯盛女も食売女も同質異称に過ぎぬ者と解釈したことが知られる。そして「新編武蔵風土記稿」巻一六に従ふと、品川宿では毎年八月七日を「弾正日待」と称し、明和年中の道中奉行たりに弾正少弼安藤雅要外二名の霊を祭るが、これは此の日に安藤外二名が協議して、同宿に飯盛女五百人の定額を許せしより、土人利潤を得たる報恩の為めだと云ふことである。更に江戸の四宿と云はれてゐる内藤新宿だけが、此の撰に漏れたに就いては特殊の事情が存したので、それに関しては後段に記述する。