一、大昔の旅行と飯盛女の起原

飯盛女の発生を知るには、先づ古代の旅行の情態を説かねばならぬ。

我国の旅行は、古代に溯るほど木銭モクセン(後世の木賃モクチン)制度であつた。即ち旅人は常に飯米を用意し、往く先々の旅舎に就くも朝夕の仕度は必らず自炊したもので、宿るとは単に雨露を凌ぐだけの事であつた。そして此の場合に炊事に要した薪代を支払つたので、木銭の名が起つたのである。従つて古代の旅行なるものが、如何に困難なものであつたかは、今に「旅は憂いもの辛いもの」又は「可愛い子には旅をさせよ」の俚諺が、残つてゐる所からも知る事が出来る。少しく例証が古代に過ぎる嫌ひはあるが、孝徳紀に「役民ありて路頭に炊き食む、是に於いて路頭の家乃ち謂りて曰く、何の故か情の任に飯を余が路に炊ぐと、強ちに祓除しむ。復た百姓他に就きて甑を借りて飯を炊ぐことあり、その甑物に触れて覆る。是に甑の主乃ち祓除しむ」とある。又以て古く旅人が路頭に苦みし有様が偲ばれる。更に更科日記の一節に、二むらの山の中に泊りたる夜、大きな柿ノ木の下に庵を造りたるに、夜を通して庵の上に柿の落つるを、人々が拾つて食した事が見えてゐる。大昔の旅行は斯くの如く「家に在れば笥に盛る飯を草枕、旅にしあれば椎の葉に盛る」のが実況であつた。「磯山千鳥」に旅籠の語源を左の如く載せてゐる。

旅宿。古へは謂ゆる草枕にて、野にも臥、山にも憩ひけむを貴人は帳の幕など馬につけて、そを以てとり囲みつつ、一夜を明したるものなるを、治まれる御代の尊ふとさは、その草枕も名のみとはなれりしなり。斯くてはたごやと云ふは、彼の帳の幡(中山曰。現代のテントの意)を納めたる籠を、はたごと云ふより移りたる名なり云々。

旅籠の語原には異説があるも、兎に角に斯くてある間に文化の暢達は、政治経済の中心である京洛の地を目ざして全国より旅行する者の多数を加へるに至つたが、それでも猶ほ旅舎の設備は木銭以上には出なかつたのである。そして是れには二つの理由が存してゐた。第一は他国人を嫌つた事であり、第二は貨幣の流通が円滑でなかつたことである。前者には民族心理に由る―始めは他国人を恐れその後に嫌ふ習俗に起り、後者は物々交換に慣れてゐた為めである。併しながら斯うした現象も、世を代へ時を経るに従つて緩和されて来て、旅舎に就く行人の炊事の世話を引受ける者が生れるやうになつた。即ち「道の者」と称する女性である。此の道の者が娼婦性を帯びてゐることは言ふまでもなく、後の飯盛女や帆洗女(ホアライメ)の先をなしたものと想ふ。然るに室町期になると旅館で娼女を抱へ置き行人を宿泊させ、併せて酒食まで供するやうになり、旅容は飯米(多くは糒である)を携へぬまでになつた。明人の書いた「海東諸国記」日本国の条に、

富める人、女子の帰する者なきを取り、衣食を給し之を容飾し、号けて傾城となし過客を引き、宿に留めて酒食を饋す、故に行者は粮を斉さず云々(原漢文)

と載せてゐる。併しながら是れは殷賑なる都市要津に限られたことで、余り繁昌せぬ街道筋の狐宿寒駅にあつては、依然として旅人の炊事を引請け、兼ねて枕席に侍した商女が存したのである。そして此の女性を「食焼(タベヤキ)」と称した。即ち炊事婦の俗称である。然るに是れと前後々「食売(タベウリ)」と俚称する商女が現はれた。即ち旅人に飯を売り、併せて笑ひを售つたのである。斯くてある間に旅館の設備が改善され、旅客はその宿にて酒食することを通常とするやうになつたので、ここに以前の食焼や食売は飯盛に転向して、専ら給仕女として勤めることになつたが、それは後には実を失ひ、主として売笑を営むこととなつたのである。