江戸の夜鷹を、大阪では惣嫁と云つてゐたが、共に最下級の賤娼であつて、古き立君、或ひは、辻君の流れを汲むものである。江戸だけに就いて云ふと、本所吉田町が、彼等の巣窟であって、夕刻になると、親方の家から監視役の男に連れられて三々五々持場へ稼ぎに出かける。近世風俗志に、
夜鷹の出るは両国橋東、永代橋西、御厩橋河岸など諸所あり。昼は取除き制したる夜のみ用ふ小屋を組んで敷戸を開き、毎戸草莚を垂れ戸口に立ちて客を呼ぶ。夜鷹数人に一二人の男附添へ喧嘩の防ぎをなし、素見客が集れば、「サアサアざつと御覧なされ」と断りを云ふ。敷物は草筵なり。年は大略十五六より四十以上の者もあり、綿服綿帯にて、顔のみ白粉を塗り頸は粧はず。黄昏より三更(午前一時)までを限りとす。枕金は二十四文を定めとすれど、大略は五十文百文を与ふ(中山曰く、これは外にゐる男が時間が来たと急ぎたて、幾度もお直しをさせるためだと聞いてゐる)本所吉田町のは白手拭で頓被りし、麻布鮫ヶ橋のは手拭を被らずと云ふ。昔は胡座を抱へしと云が今は小屋がけなり。(摘要)
夜鷹にも売ッ妓があつて、一夜に三百六十名の客を呼んだので、「一年」と綽名された者もあり、吉原の名妓と、浅草観音堂に掛額を争つた塵塚お松など云ふ剛の者もあつた。
船饅頭とは、その名の示す如く船に客を迎へて售笑するのであるが、これに従事する土娼は、吉原その他にて悪質の梅毒に罹り、顔は崩れ腰は抜け、起ち居も出来ぬやうな廃人を仕入れて来て、夜間に船に乗せ、船頭が付添うて河岸や大川を漕ぎ廻り、客があれば一廻り二十四文位で漕ぎ歩いたものである。夜鷹に劣る土娼であつて、日本奴隷史によると、「歳は四十以上より五六十ばかりの古女多く、痩なるは小娘の姿に粧ひ、姥は墨をもて眉を書き、白髪を染めて島田髷を結ひ、鼻頭の欠け落たるは蝋燭の流れを以て補ふ。聾あり跛あり、青盲あり、いづれも娼家に用ゐがたき醜女なり」とある。
かくまでして生きねばならぬ人間があるかと思ふと、その人間を銭を出して買ふ人間があるとは浮世である。
蹴ごろは後世のチョンの間の意に同じく、上野の山下が本場であつた。一切(ショートタイムの意)百文であつて、宿泊することも出来たのである。
綿摘とは、良家の娘を粧うて表面この事(綿を摘んで拵へる内職だが今は無い)ぶ従ひながら、客の需めに応じたもので、一種の淫売婦だ。
提げ重とは、持ち運びに便利だと云ふところから生じた名で、これも私娼の一類に過ぎぬのである。筆路が余りにも鼻持ちならぬ方面に深入りしたので此の辺で擱筆する。
(講談雑誌一七ノ三)