仏に仕へる比丘尼が売色したやうに、神に仕へた巫女(これには神社に附属した神楽神子と、町村へ土着した口寄市子の区別があるも、ここには押くるめて巫女と云ふ)も亦狷んに售笑した。勿論巫女は比丘尼のやうに公然と見世を張るとか、客引するとか、さうした大掛りのものでは無く、隠れて売つた私娼ではあるが、それでも相当に風俗を壊乱したものである。
「半日閑話」に、
明和六年三月四日より、湯島天神社内において、泉州石津大社ゑびす開帳あり群集多し。神楽堂にて二人の乙女神楽を奏す。名をお浪お初といふ。振袖の上に千早を着たり。容貌麗しくして、参詣の人心を動かす。凡そ開帳毎に神楽神子の美を択むこと是なん俑を作りけらし。この二人の神子錦絵に出る。
かうして錦絵にまで出された彼等の内職が、何であつたかは、私が改めて説明するまでもないことである。
川柳点に、「諸々の鼻毛あつめる神子の顔」とか、又は、「鈴の音で男をよせる美しさ」とあるのも、此の間の消息を伝へたものである。
併し乍ら巫女の売笑も、本家は京阪であつて、江戸は分家にしか過ぎぬ。
男色大鑑に、「竃払ひの巫女、男ばかりの家を心がくる」とあるやうに、かなり大ッぴらに押し売りもしたやうである。
好色一代男に、「縣神子も望めば遊女の如くなり」とあるのも、強ち誇張した事だとは考へられぬ。
「好色貝合」に、巫女の色模様を左の如く記してゐる。
千早かけて菅笠、家々に入って鈴を振り、幾度も袖をひるがへして舞ひぬる。神子は暖簾の内に入れば、如何やうのやりくりもなる事なり。然のみならず、すこし手占を頼みたいと云へば二階へも奥の間へも呼ぶ所へ来る。何なりと占はせて、世の咄するに、それしやの女あぢには気が遠くなり、あののもののと濡れかける。(摘要)
江戸の口寄市子が売笑したのも有名であるが、これには「土手組」と称する者と、別に「仰向け笠」と云ふ者との区別があつた。前者は昼は口寄を営み、夜は土手へ出るもので、夜鷹と同じやうな醜業をしたのである。
後者は市内を流して歩き、男の客に招ばれた折には、被つてゐる菅笠を入口に仰向けて置けば応諾のしるしとなし、俯伏せにするは、拒絶のしるしとしたので此の名が起つたのである。
川柳点に、「笠の置きやうで男の口も寄せ」とあるのや、更に「竹笠をうつ向けられて」云々とあるのも、みな此の情事を詠んだものである。