江戸の四宿と云はれた品川、新宿、千住、板橋の変遷を記すのも、また興味が無いではないが、既に品川と新宿に就いては本書に於て、別に書いてゐるし、それに変遷となると考証に陥り肩が凝るので今は略し、ここには江戸の私娼の跋扈と、これを相手にする遊び振りなどに就いて述ベるとする。
江戸期を通じて不思議の存在は、比丘尼(歌比丘尼とも勧進比丘尼とも、古きは絵解比丘尼とも云うた)と称する私娼であつた。
これは元、紀州熊野三社の下級の神人達の妻や娘が、生活のために地獄極楽の絵巻物を携へて諸国に出で、絵解をして熊野信仰を説き、浄財の勧進をしたのに始まるのであるが、女ならでは夜の明けぬ国柄とて、何時の間にか売色する方が収入の多いところから、純然たる私娼と化してしまつたのである。そして、熊野から出る売色比丘尼は五千人の多きに達し、それ等が国々を漂泊しつつ、脂粉銭を収めて帰るので、熊野三社の経営が維持されたと云ふ。また以て、彼等の稼ぎ高の少くないことが知られるのである。
然るに後世になると、此の比丘尼が奇を好む遊蕩児に歓迎されるところから、比丘尼でも無い私娼達がこれを真似るやうになり、江戸、京都、大阪の三都は云ふまでもなく、草深い片田舎まで、彼等の徒が出没するやうになつたのだ。
京都に徘徊した比丘尼に就いては、艶道通鑑に左の如く記してある。
朝ぼらけより黄昏まで、所さだめず惑ひ歩く、日向くさき歌比丘尼の有様、昔は脇挟みし文匣に巻物入れて、地獄の絵解きし血の池の穢れを忌せ、石女の哀れを泣かするを業とし、年籠りの戻り烏午王配りで、熊野権現の事触れめきしが、いつの程よりか隠し白粉に薄紅つけて、附髪帽子に帯幅の広くなり、知らぬ顔にて思はせ振りの空目づかひ、歩み姿も腰をすゑての六文字、 米かみで菅笠が歩くと笑はれしは昨日になりて、饅頭に飽て西瓜好きする僻者どもは、さつぱりとしたるが面白しと、斎明けにも精進かためにもしくものなしと、これか弄ぶぞかし云々。
大阪に出没した売比丘尼に関しては、西鶴の好色一代女に下の如く載せてある。
抑々河口に、西国舟の碇おろして、我故郷の嬶思ひやりて、淋しき浪の枕を見かけて、其人に濡袖の歌比丘尼とて、此津に入乱れて姿舟、艫に年かまへたる親爺るながら楫とりて、比丘尼は大方浅黄の木綿布子に、龍門の中幅帯前結びにして、黒羽二重の頭隠し、深江のお七指しの加賀笠、うね足袋穿かぬといふ事なし。絹の二布の裾短く、とりなり同一に拵へ、文台に入れしは午王酢貝、耳姦しき四ッ竹、小比丘尼に定まりての一升柄杓、勧進と云ふ声引切らず流行節を謡ひそれに気を取り、外より見るも構はず元舟に乗り移り分立て後、百繋ぎの銭を袂へ投げ入れけるも可笑、或は割木を其値に取り又は刺鯖にも代へ、同じ流れとは云ひながら、これを想へばすぐれてさもしき業なり云々。
西鶴が描いた比丘尼の生活は、かなり、下級のものであつたやうに思はれる。舟に乗つて水の上で稼ぎするとは、全く大阪の「伽やらう」江戸の「船饅頭」と択ぶところがない。
これに比ベる江戸の、比丘尼の生活は、やや高級であったらしい。左に寡見に入つた諸書から要約して転載する。
午王売の比丘尼は、腰に勧進柄杓をさし、米を貰ひ歩きしなり。寛文の比、びんざさらを持ち、歌を謠ひしより風俗大に下る。尤も唱歌も野卑なり。此時より早くも売女のきざしを現はせり云々。(我衣)
天和の唄に流行せし歌比丘尼の内、神田めつた町より出る永玄お姫、お松、長伝と云ふが名取にてありしぞ。繻子か羽二重の投頭巾を被るによつて、繻子鬚と名付たり。(武江年表)
元禄より、中宿ありてこれへ行く。神田和泉橋北側裏毎にあり、新道ぬけて大方中宿なり。また東橋八官町、お堀通りの町家に中宿あり後、京橋畳町にあり。正徳頃は茅場町組屋敷に出す。享保九年小浜民部屋敷脇へ引く。往来は木綿なれども、中宿にては、紗綾縮緬八丈の紅裏模様を着す。夏冬とも黒縮緬の投頭巾を着す。尤も長し。櫛笄、ささぬ遊女に等しく怪しからぬ有様なり。其頃浅草門跡の脇法恩寺前にも中宿あり、これは劣れり。宿は神田多町より出る。また深川新大橋向より出る安宅丸の跡の町家なり。これを安宅比丘尼と云ふ下品なり。早稲田の在よりも出る下々なり。寛保二年八官町に心中出来る(此の事は後に挙げる)公辺になり遂に売女に落て、それより中宿堅く御停止にて止みたり。正徳年中に中村源太郎といふ女形の役者に似たる比丘尼あり、源太郎比丘尼とて名高し。(我衣)
或る老人の話に、享保の中頃、新橋八官町河岸などに売比丘尼ありて賑ひたり。その頃神田多町の比丘尼、さる屋敷の侍をだまし、侍は無念に思ひ、或る時神田明神の祭礼に、須田町の桟敷にて見物し居るを見付け、帰りがけに切殺し、其身も相果たり、それより見世を張ることを停止さる。我等二十歳ばかりの時までは路次に御幣と午王の看板を出し、日暮には小比丘尼出て客を引たりしが、何時となく離散せり。(親子草)
都鄙を通じて、公弘娼も夥しく存してゐたのに、比丘尼と云ふが如き異形変態の者が、何故に斯くまで猖んに流行したか不思議でならぬ。勿論、好奇の劣情を挑発し、嫖客の心理に投合したと云へばそれ迄であるが、それにしても斯かる異物を歓迎した当時の社会が、如何に堕落し腐敗してゐたかを考へるには蓋し誂へ向の資料である。