四、深川の始めは帆洗ひ女てふ私娼

深川は、岡場所の首位を占めてゐただけに、その起りも亦相当に古いものがある。

紫の一本に「八幡の社あり、此の地は江戸を離れ深川の地にて、宮居遠ければ参詣の人も稀にして島の内繁昌すべからずとて、御慈悲を以て御法度もゆるがせなれば、八幡の社より手前二三町が内は、みな表店は茶屋なり。数多の女を置いて参詣の輩の慰みとす。就中、鳥居より内を洲崎町の茶屋といひて、十五六より二十ばかりの女の、客姿の勝れたるを十人づつ抱へ置いて酌とらせ、小唄歌はせ三絃を打ち、後はいざ踊らむと当世はやる伊勢踊、風流なること三谷の遊女も爪をくはへ麈をひねる」とある。

此の記事は概ね寛永頃のものと思ふが、かうした漁村とも見るベき地が、忽ちのうちに発展して来たのは、房州の畦蒜郡の船頭が此の地に来て、帆洗ひ女と云ふ名義で売色を始めたに由るとも伝へられてゐる。

そして宝暦頃には、仲町、大新地、櫓下、裾継、小新地、新石場、古石場、常磐町、松井町、お旅、弁天などの繁昌を致したのである。

「近世風俗志」に、天保初年の深川に就いて左の如く記してある。

仲町、大新地、柳下、新石場、弁天などには茶屋あり、嫖客は此茶屋へ往きて女郎芸妓を迎へ、酒宴双枕ともに茶屋にてなす、俗に之を「呼び出し」と云ふ。また裾継、古石場、常磐町、松井町、お旅などには別に茶屋はなく、遊客は妓楼に入りて酒宴双枕ともになす、俗にこれを「伏せ玉」と云ふ。また呼び出しの娼妓を抱へ置く家を子供屋と云ひ、伏せ玉を置く家を女郎屋と云ふなり。それ故に、呼び出しは一妓一客なるに反して、伏せ玉は一妓にて二三客、又は四五客を異席に臥せ***、江戸の俗にてこれを「まわし」と云ふ。吉原もこれに同じ。京阪には無きことなり。

弁天とお旅を金猫、銀猫と異名す。弁天の玉代は金壱分、お旅は銀二朱なりしより斯く区別すると云ふ。また本所同向院前にも、金猫銀猫とてあり、これも古く金壱分銀二朱との差より名づけしものなり。此の弁天は一ッ目橋の西にて、水戸公の会所に近きゆゑ三絃を禁じ、また柏手を禁ず、客の婢を呼ぶには二階の畳を叩くなり。此の事他所になし。

岡場所にても、芸妓の売色することは厳禁なれども、町芸妓は往々密にこれを行ふ。深川の仲町と大新地は客の人柄を見て、これを行ふこと遊女の如し。仲町にて女郎を買ふは普通の客のみ、つねに此処に遊ぶ者は、必ず芸妓に馴染と称して双枕す。これは茶屋も妓楼も得心のことなり。(以上摘要)

深川の繁昌は、黄表紙や洒落本にも書いてあるが、その詳細を尽したものは、偽永春水の梅暦である。

勿論、これ等は稗史小説のこととて幾多の誇張のあるのは免かれぬが、兎に角に、此の地が「陽気にして片よらず、船の通ひ路が自由である上に、角力あり、開帳あり、川開きあり、夜弓あり、妓楼の座敷が晴れやかで山海の美味に富み、芸者の調子が尋常に勝り、騒ぎの小唄(俗に深川節とて今に歌ふ)天下に類なく、世上の女の羽織着ると、さつさオセオセの浮拍子は、皆この地を始めとし、女郎の気性も自然とのびやかである」と、風来山人が大提灯をぶらさげたやうに、下品ではあつたが殷賑を極めたものである。

殊に妓楼も娼婦も、客を遊ばせるに絶えず新工夫をなし、俗に「突ッ伏し茶屋」とて、招んだ芸者が酒を飲みて酔に堪へずして突ッ伏す真似をすることは、客の要求に応ずる合図だと云ふ。

今から考へれば、他愛もない媚術であつたが、これが江戸ッ児の叫采を博すなど、種々なる発展策を講じたものだと云ふことである。かうした深川も、天保度の水野越前守の改革で取払ひになり、八幡鐘に後朝を惜しんだのも夢となつてしまつた。