二、上方女と江戸女の情戦

江戸で公許された遊廓は吉原だけであつて、その他の深川、品川、根津、板橋、新宿などは私娼窟から発達したもので、元は天下御免の遊里では無く、是等を俚俗に岡場所と称し、地方のそれを悪所場と呼んでゐた。

後世になると江戸では吉原、品川、千住、板橋、新宿を一廓四宿と云ひ、遊廓以外の娼婦をば、飯盛女郎とも宿場女郎とも称して、これを賤しんでゐたものだ。

江戸と云ふ都会は、幕府の開けると間もなく完成したが、如何に徳川氏の権力を以てするも、美人まで拵へあげることは出来なかつた.開府後約六十年を経た元禄頃の有様を見るも、江戸生れの女は武蔵野の水を飲んで育つただけに気が荒く、首筋短く、足の平大きく言葉は関東の訛りが多く、その上に畳障りも尋常でないために、とても大名の奥向などの使ひ者にならぬので、かうした女中は、悉く京阪地方から呼寄せたと云ふことである。これは江戸が人間の掃溜であつた草創期の実情であつて、吉原の遊女も租野であつて、江戸女では太夫の花魁のと云ふ柄で無いので、高級の遊女は殆んど悉く京阪からの輸入であつた。

それが享保頃(開府後約百年)になると玉川上水で、磨きをかけた生粋の江戸女が作りあげられ、京阪の女に対して自覚の眼をひらき、これを向うに廻して、花柳界の情戦を辞さぬまでに発達して来たのである。

換言すれば、上方女が勢力を失ひ、江戸女が隆盛に赴いたことは、即ち遊廓である吉原が衰へて、岡場所である深川(及び其他)が盛んになつたことを意味するのである。更に詳言すれば、深川が吉原を凌ぎ、遂にこれを圧倒するまでに繁昌したのは、前者が江戸女のおきやんを売り物にしたのに反し、後者が上方女のおつとりとした気分を守つた竸争であり、且つ吉原は通とか粋とか云ふ故実を尚び、格式などに捉はるるに反して、深川は鉄火と云ひ伝法と云ひ、故実の格式のと云ふ一切の形式を打破したことが、当時の江戸ッ児なるものの人気に投じたものであつて、従つて顧客の如きも、概して吉原は武士と富有の商人であつて、深川は諸職人と、中以下の商人や雇人が多かつたのである。

現代的に云へば、吉原は何処までもブルジョアであり、深川は飽くまでもプロレタリアであつた。

殊に江戸が百貨生産の地となつてからは、これに従事する諸職人の勢力は、多数であつただけに、決して侮ることの出来ぬものがあつた。

厳格なる意味から云へば、江戸ッ児なるものは、是等の諸職人によつて発達したものである。

かうして岡場所は遊廓に打勝ち、私娼は公娼を征服し、北のありんすは巽のびんしやんに圧倒され、これに加ふるに、当代において著しく発達した資本主義的の経済関係は、益々この傾向を助長したのである。

当時、江戸市内における私娼の猖獗は、実に驚くベきものがあつて、幕府の取締の緩厳により、多少の相違はあるが、それでも常に三四十ヶ所を降らず、これに従ふ私娼は、何万を以て数ふるほどであつた。それ故に、私娼の階級や種類も頗る複雑して、半霄に百金を要する羽織芸妓もあれば、一回二十四文で済む夜鷹や船饅頭もあつた。

宝暦年中に、平賀源内の誌したもののうちに、私娼窟と其種類とを詳しく書いたものがあるので、ここにそれを掲げ、多少の私見を加へて、如何に淫風が満都を吹きまくつてゐたかを知るとする。