草より出でて草に入ると云はれた武蔵野の月も、慶長八年に徳川幕府が江戸に開かれたので、四方から大名や旗本が集つて来た。又それ等の武家を得意とする諸類の商人や職人が群り来て、忽ちのうちに四千七町八百八町、岡里四方と云ふ大都会が建設され、屋根より出でて屋根に入る黄麈の月とな つてしまつた。当時の俳人が「江戸を以て鏡とするや君ヶ春」と詠み、更に(鐘一つ売れぬ日はなし江戸の春」と吟じたのも、共にその繁昌を礼讃したものである。
かうして全国から、群集する人達を相手にして媚を売り、春を販ぐ魔性の女子の発生するのは当然である。殊に将軍家康は九人の妻妾のうち、三人まで後家女を引ッ張り込む程の苦労人だけに、諸国の者が江戸へ来れば歓楽の限りが尽せると、勇み進んで押掛けるやうにせよ、それには遊廓を公許し肉の取引市場を設けよとて、公娼を保護するの政策を執つたばかりか、駿府(今の静岡市)に隠居してからは二長町の遊女を邸内に招き、縁側に請じて茶菓まで饗応した歓待振りを示したので、上の好むところ下これより甚しきはなしの譬に洩れず、江戸の吉原、京都の島原、大阪の新町、伏見の泥町、大津の柴屋町、越前の三国、博多の柳町、長崎の丸山などを主なるものとして、全国の悪場所は無慮幾百を以て数ふる大発展を促し、名妓は雲の如く現れ、土娼は林の如く簇り、海内を挙げて売淫国と化し、ここに、太平三百年の酔生夢死時代を展開するに至つたのである。併しながら花を催すの雨は、やがて花を散らす雨である。笑書は徳川幕府を倒したと云はれた如く、江戸を繁昌させた遊女は、遂に江戸を滅亡に導いた遊女であつた。そして此の理窟は、全国的に通用するものである。
徳川期の生活は上下を押くるめて遊廓中心であつた。芝居も浮瑠璃も、遊里の礼讃であり娼婦の渇仰であつた。「新発田五万石荒そと侭ま、新潟通ひはやめられぬ」と、家も名も物の数とも思はぬ大名もあれば、「君と寝やるか五千石ところか、何の五千石君と寝よ」と、身も禄も惜まず情死した旗 本もあつた。
昭和の現代にも、人口にのぼる紀文や奈良茂は、当時における理想的の蕩児であつた。蔵前の十八大通も、これまた当代にあつては模範的粋人であつた。淀屋辰五郎や茨木屋幸斉なども、また蕩児仲間の称讃を博した訳知りであつた。西鶴の振筆に写された極道者の数々、其磧自笶の才毫に描かれた遊 蕩児の様々、京伝その他の体験者によつて記された黄表紙の主人公など、実に空前にして、然も絶後とも思はるるほどのたわけを尽したものである。そして需要供給の原則は、別世界である遊廓にも立派に行はれて、名客あれば名妓あり、都返りの盃に嬌名を歌はれた吉野、君は今駒形あたりの秀句で知られた高尾、丹前風の好尚を始めた勝山など枚挙するに遑がない。
「京の女郎に江戸の張りを持たせ、丸山の夜具を被て新町の揚屋で遊んで見たい」とは、放蕩者の遊里に対する理想であつた。更に「冬は傾城、夏は野良、春は白人、秋舞子、雨の日は手掛者、精進日の比丘尼と、品を変へての好み食ひ」とは、同じく極道者の娼婦に対する憧憬であつた。
これでは幕府の屋台骨が、動き出すのも不思議でない。
由来私は、我国の売笑史を説くこと一再でないが、従来は本格的の吉原とか島原とかの消長に筆を労したが、今度は全く趣きを変へ、岡場所を中心として、諸国の悪所場の起伏を説くこととした。幸ひに、愛読を冀ふ次第である。