六、妾奉公と云ふ半奴隷となる

古い諺に人間の面白いことは、「死ななければ戦争、焼けなけれが火事」と云ふのがある。かなり無鉄砲の面白さではあるが、兎に角に死ぬと云ふことが無かつたら、男子としては戦争は面白いものであつたに違ひない。然もその面白さの大半は、勝ち戦で女子を掠奪し、それを妾にして陣中で暮すのに在つたことは言ふまでも無い。武田信玄が諏訪頼茂の女を奪ひ、羽柴秀吉が浅井長政の女を掠め て、共に妾としたことは著聞されてゐるが、江戸三百年の幕政を開いた徳川家康なども、此の方へかけては剛の者で、他人の妻を奪つて妾とするのに戦争すら辞さなかつた。併し斯うした特権階級の蓄妾沙汰は、当時の社会では尋常のこととして余り問題にはしなかつたが、それでは大名以下の武士町人の蓄妾問題は如何なるものであつたか、ここには主としてその方面に就いて述べたいと思ふ。

諸大名が多くの嬖妾を擁してゐたことは、有閑と漁色との二理由に出発してゐるのであるが、これが表面の理由としては、実子なきときは家国を改易さるると云ふ武家法度に藉口したのである。そして諸大名が是等の嬖妾なるものに如何に愚弄され手玉にとられたかは、今に稗史として加賀、黒田、秋田等の所謂御家騒動の禍根が、悉くこれに発してゐると伝ふるのを見ても判然する。川柳点の「み づからを棄ててわつちを御寵愛」から、「百姓は瘠せて妾は太るなり」とすすみ、遂には「先殿の不覚お袋様だらけ」で、藩政まで窮乏に陥れたのである。

全体、江戸幕府は法制上から妾を人格者として公認したものではなく、ただ単に貞操を提供する奉公人として取扱つたに過ぎぬのである。併しながら幕府は、一方においては過酷なる重刑主義と、儒学による教化思想とを以て社会に莅んでるた為めに、風紀を維持する点から、妾に多少の待遇を与へたのである。御定書百ヶ条に「密通御仕置、妻妾都て差別なし」とあるのはその一証である。復言す れば、江戸時代の妾なるものは、奈良・平安両期のそれの如く、妾妻としての権利(それが副婚であり、更に異列的であつても)を有したものでは無く、一世の雇ひ人として双互間の契約による義務の負担者に外ならぬのであつた。但し例外として元禄度の法令で「女房を妾奉公に出す者は死罪、取持候者同罪」として禁止しただけで、他の娘なり姪なり妹なりを妾奉公に出すことは許されてゐた。

西鶴の書いた三所世帯を読むと江戸開府当時の関東の女子は、色黒く首短く坐臥ともに粗野であつて、大名や旗本の奥向には極めて不適任であつた為めに、沢山の若い女を京阪から江戸へ出したものだと載せてある。そして斯くした事情は、独り大名や旗本の奥向ばかりで無く、苟くも女性を必要とする方面には、悉く上方娘が輸入されたのである。吉原の遊女でも、各町に散在した風呂屋の湯女で も、その高級なるものは京阪者であつた。妾の要求が此の地方に向つて猖んであつたことは言ふまでも無い。其磧の記した世間妾気質の一節に左の如きものがある。

いつそ妾ものにして、大名方へ出さばと、夫婦談合して、はじめの角を笑ひにかくして、口入嬶をたのめば、口が明たと嬶が悦び、京中の妾入口をかけ廻りて尋ねれば、又広い事、諸国の大名方より妾の器量恰好年ばいまで絵図にして、幾口といふことを知らず、毎日五人三人目見えのなき事もなし云々。

昔も今に変らぬ色好み、実に驚くばかりである。そして是等の妾は、その者の身分により高下があり、上は将軍のお部屋様から、下は月幾回といふ旦那どりまであり、給金の如きも身分と勤め方とで元より一定してゐなかつた。当時、世間に行はれた妾の種類を略記すると「上りきり」、「囲ひ者」、「居坐り」、「先摺り」、「お摩り」、「炊ざわり」などが重なるものであつた。上りきりは大名又は旗本などの家に抱へられた高級者で、囲ひ者は富商又は商家の番頭などから月々の仕送りを得るもの、炊ざわりとは飯も炊いたり伽もしたりと云ふ、婢妾兼帯の下級であつた。妾奉公に出る女は素人が多く、遊女や芸妓がこれに次いでゐたことは言ふまでもない。

江戸期も元禄頃を界として、大名旗本などの武家階級は漸く経済的に窮し始め、此の反対に町人階級の商賈が富有となり、此の傾向は年代の降ると共に、その距離が拡大されて来て、妾の需要も武家よりは町人が多くなつてしまつた。是等の推移を物語るべき幾多の資料も有してゐるが今は省略し、ただ一つだけ町人の蓄妾沙汰が、如何に豪奢なものであつたかを示して、結論に急ぐとする。世事見聞録に、

近来、町人共が妾を幾人も遣ふ事になり、又囲ひ者といふもの流行して、是又幾人となく寵愛するなり。依て妾奉公をするもの、武家を嫌つて町人の囲ひ者となれり。さて右の囲ひ者の風情を一つ云はん。近頃、浅草蔵前の札差なるものの囲ひ者の、手に常に弄ぶ琴が百両かかりしと云ふ。琴爪が金にて彫物ありといふ。衣服髪の物是に準じ、栄耀なること言語に述べがたし(中略)。又右の囲ひ者の由来を承りけるが、此女元は吉原にて、兵庫屋の月岡というて、名高き遊女なりしが、中頃よき客に逢て身請を致され、優しく暮しけるが、其男病死して身の寄るべを失ひ、又も余人に連添ひしが(中略)此者も零落し、其内子供も三人まで出来て、甚だ難渋に暮し、四ッ谷に団子を売りて居りけるを、其処を右の豪福なる者が通りかかりて、ふと目に当り(中略)密会に及び内談を遂げ(中略)、夫並びに子供三人に手切金として、金子三百両を遣して、貰ひ受けて妾となし、近辺の町家に囲ひ置きて、右の通り善美の結構をして楽み明すといふ云々。

併し楚れが幕末の世相であつた。斯うした事実を春水その他の戯作に覓めんか、それこそ寧ろ多きに苦しむほどである。子を持たば女を持たんことを望み、女を持たば妾にして左団扇で暮さうと云ふのが、当代における多数人の心理であつた。

蓄妾の歴史を、極めて概括ながらも明冶期まで書かうと思うて、これまで筆を運んで来たが、それに到らぬ以前に一定の紙幅を迥かに超えることとなつた。従つて明治期は全部割愛しなければならなくなったが、これに就いては他日機会を見て、やや詳しく述べて見たいと考へてゐる。

(犯罪科学二ノ六、七掲載)