五、武家時代の妾は強く生きた

長文になるのを恐れて、ここには武家政治を始めた鎌倉期と、暗黒時代と言はれた室町期とを併せ述べることとする。

世相は変つても、変らぬのは男女の道で、武家政治になつても蓄妾沙汰は少しも衰へず、却つて猖んになる傾向を示してゐる。殊に大がかりであつた外妾は、平清盛が愛した妓王、妓女の身の上であつた。平家物語に、

太政入道、その比京中に聞えたる白拍子の上手、妓王妓女とておとどひあり、刀自と云ふ白拍子が娘なり。然るに姉の妓王を寵愛し給ふ上、妹の妓女をも世の人もてなすこと斜めならず、母刀自にも良き屋作つてとらせ、毎月百石百貫を送られたりければ、家内富貴して楽むこと斜めならず。京中の白拍子ども妓王が幸ひの目出度さまを聞いて、羨む者もあり、猜む者あり。かくて三年といふに、又白拍子の上手一人出来たり。加賀の者なり、名を仏とぞ申しける。入道相国後に仏に心を移されけり(以上。要約)。

此の事件は誰でも知つてゐる有名なものゆゑ、別に解説を加ふべき必要も無いが、ただ驚かれることは、妓王が済盛から支給された月々の費用の高である。此の記事によれば毎月百貫百石とあるが、当時の銭一貫は現代の金八円にも相当するので、此の分だけでも八百円、米を一貫で一石二斗換へとしても八十八貫、合計すると二三千円にも達する手当である。勿論、天下の半分を領地とした入道相国の外妾であるから、此の位の支給は何でもなかつたかも知れぬが、これでは「家内富貴」するのも決して偶然ではない。

武家政治になつても、妾は前代の習慣を承け、法律上一個の人格者として、殆ど妻と同じほどの地位を認められてゐた。貞永式目第二十一に左の如きものがある。

一、妻妾、夫の譲りを得て、離別せられし後、彼の所領を領知すべきや否やの事

右その妻、重き科あるに依て、棄損せらるるに於ては、縦ひ往日の契状あるといへども、前夫 の所領は知行し難し。若又、彼の妻、功ありて過なく、新を賞し旧を棄つる者は、譲るとこる の所領、悔還する能はず矣(以上。もと漢文)。

端書には妻妾とあり、本文には単に妻とのみあつて妾を略してゐるが、これは外の条文から見るも、一字に両者を含ませたものと見て差支あるまい。かく妾も一個の人格者である以上は、その良人が理由なくして遺棄するが如きことあれば、これを相手どつて訴訟を起し、貞操料を請求することも許されてゐたやうである。ここに武家時代の女性の強みと特色が存してゐた。 併しながら他の一面から見れば、武士気質が培はれて来て、婦人の道徳―即ち貞女両夫に見えずと云ふ思想が固定するやうになると、仮令、妾であるにもせよ、婦徳を守るに頗る堅固のものがあつたが、又それだけに弱い処も存してゐた。殊に武家が俸禄(これには禄高による武家役が伴うてゐた)で生活するやうになり、且つ戦争が毎年のやうに行はれるやうになれば、女子は概して足手纒ひ扱ひされて、結婚して寄生的の生活を送るより外に生きる途はないこととなつた。武家時代において婦人が職業を獲ようとすれば、不倫なる売笑をするか、それで無ければ半奴隷の下婢となり下るか、二者その一を択ぶだけであつた。加之、週期的に襲来する飢饉と、微弱ながらも資本主義的に動き出した経済制度とは、人身売買が猖んに行はれるやうになり、一種の「妾奉公」なる職業的婦人を見るまでになつた。そして此の妾奉公の周旋を営業とする者さへ生れた。建暦二年三月の宜旨に左 の如きものがある。

一、京ノ中媒の輩を停止すべき事

抑、此来、天下に下女あり、京中、中媒と称す。その号大に法度に背き、その企て浅く罪囚に渉る、窈○の好述を和誘して、陋賎の匹夫に配遇す、或は偽て英雄華族と号し、或は謀つて西施下蔡と称し、偏に人情を蕩して只身要となす、奸罪は已に本条に載す、○誕重科を添へる者か、慥に使庁に仰せ、且その家を実録して、その身を糾弾せよ(もと漢文)。

そして此の中媒なるものは、後世の「慶庵」又は「女衒」の先をなしたものである。

更に時代が織豊期まで降ると、各国の大名や小名が好んで蓄妾した実例に至つては、全く枚挙に遑なしと云ふ有様である。それのみか甚しきに至つては、甲陽軍鑑にあるやうな、上杉則政の重臣である須賀野大膳、上原兵庫の両人が、所領内の農民や町人が、美しき娘を持つてゐると、罪科も無いのにその親を牢へ入れ、娘を妾にして永く抱束した事件に類したことも尠くなかつた。関白秀次が三十一人の嬖妾を有し、遂に畜生塚の醜名を残したなどは、誰でも知つてゐる有名なる事件である。猶ほ法制上における妾に就いて記すべき事もあるが、今は態と省略に従ふこととした。