四、嫡妻本妻妾妻の区別とその世相

平安朝は肉欲の天国を実現し、朝野ともに過酷に由る神経衰弱時代だけに、一夫多妻は極端にまで盛行し、蓄妾の如きは全く尋常の茶飯事となつてしまつた。殊に政柄を執つた藤原氏の伝統的な閨閥政策なるものが、美姫を儲けて後宮に納れ、君寵を得ることとなつてゐたので、隆んに国色を漁つて妻妾としたため、さらぬだに此の風潮を増長させるやうになつた。さればにや藤原師輔の三人妻、関白兼家の三妻錐、摂政道長の二人妻などを尤なるものとして、良岑宗貞(出家して遍昭と云ふ)も亦三人の妻を有してゐた。そして是等は共に同列的では無いまでも、決して異列的では無く、その中間の順列的の妻と見るべきもので、此の外の嬖妾の如きは少しく誇張して言へば、殆ど数知れずとも云 へるのである。日本後紀の大同三年六月の条に、藤原乙○の素行を記して「性頑騙にして妾馬を好み、山に縁ひ水に臨んで多く別業を置き、以て之に宿り必ず内事に備ふ」あるが、斯うした淫蕩生活は、当代にとつては別段に珍しい事では無く、有閑階級にあつては悉くさうだと云うても敢て過言では無い。律義者と云はれた藤原行成すらも、宿直の暁方に女房の部屋部屋を覗き廻つて、女は寝起の顏が最も美しいなどと、脱脂と唾汁を一緒に流して嬉しがり、菅原の大臣も「鶏も無く鐘も聞えぬ里もがな、ふたり寝る夜の隠れ家にせむ」と惚気て、賢者顔する時代であつた。豈独り乙毅のみならむやと言ひたい位のものである。

斯うした時代とて蓄妾に関する事件も、余り夥しきに苦しむほどであるが、茲にはその代表者として関白兼家を拉し来つて、槍玉にあげる事とする。源平盛衰記に兼家のお妾騒動に就いて、左の如き記事がある。

村上帝の御宇、左中将兼家と云ふ人あり。北の方を三人持たれば、異名には三妻錐と申しけ り。或時、この三人の北の方、一所に寄り合ひて、妬色の顕れて、打合ひ取合ひ髪かなぐり、衣引破りなんどして見苦しかりければ、中将は穴六借とて、宿所を捨て出で給ぬ。取さふる者もなくて、二三日まで組合て息つき居たり。二人の打合は常の事なり、まして三人なれば、誰を敵ともなく、向ふを敵と打合けることの咲しけれ云々。

勿論、戦記物のこととて、多少の懸値は免かれぬが、兎に角に斯かる騒ぎも絶無だとは想はれぬ。全体、兼家ばかりで無く、当代の実上人は往きずりに路傍の花でも摘むやうな、軽い浮いた気持で女性にかかづらつてゐたものである。殊にそれが兼家の如く門地が高く、比肩する者も無いほどの利け者となれば、その支配意識の燃ゆるままに、接するほどの女性をば、片端から征服せずには置かなかつた。兼家は三人の正妻(とは可笑な事だが、当時はこれが許されてゐたのである)の外に、大鏡によれば賀茂若宮の憑く巫女を招ぎ、手づから「御装束たてまつり、御冠せさせたまひて、御膝にまくらせさせて、ものは問はせ」たのも、実は此の巫女の容色を愛した為めである。更に栄華物語によれ ば、兼家は長女超子(冷泉院の女御)の侍女大輔をも愛し「いみじう思し時めかし、つかはせ給ひければ、権の北の方とてめでたし」と浮名を流してゐる。斯うした事も詮索したら、まだ沢山あること思ふが、今は大略にする。

当代に書かれた藤原明衡の新猿楽記を見ると、西京の右衛門尉某が本妻、次妻、第三妻を有してゐたことが載せてある。そして是れらの三妻の者が異列的であつたことは容易に考へられるが、更に貴族間の嫡妻、本妻、妾妻の関係にあつては、必ずしも異列的だとばかりは見られぬ点がある。九条兼実の日記「玉葉」承安五年六月の条に、明法博士中原基広と忌服の事に就いて問答した記事中に、左の如きものがある。

一、妻妾の事

問て云く、仮令、人妻三人あり(原註。嫡妻、本妻、妾妻)、その嫡妻、本妻、年序を歴て一子無く、妾妻今嫁娶へて子あり、而してその妻等亡なば、その夫は何を忌むや。

申て云く、嫡妻、たとひ一子を生まずとも、亡なばその服をなすべし。その後に数子の母亡るといへども、その服をなさず、これ則ち夫は再び妻の服を着けざる故なり。

復問て云く、たとひば女夫、の服を着け了り、改嫁の後、また夫の服を着べきや否や。

申て云く、女に於いては嫡妾を論ぜず、毎夫にその服を着く(もと漢文)

此の記事によれば、問者たる兼実は、嫡妻、本妻、妾妻の三つを挙げてゐるのに、答者たる基広は、嫡妻、妾妻の二つを以て応じてゐる。これから考へると当時にあつても、名前だけは嫡本妾と区別されてゐても、事実嫡(又は本)妾だけしか存在しなかつたのではあるまいか。現代の道徳観から言へば、適法上の配遇者一人だけが妻であつて、他は悉く妾で無ければならぬのであるから、従つて妾妻(明治初期には権妻と云ふ者を法律で認めたことがある)と云ふが如き名は、全く無意義である。且つ当代の法令(平安朝には養老令が行はれてゐた)から云ふも、嫡妻の本妻のと正妻を区別してはゐぬので、言はば此の称へは私事に外ならぬのである。桜井秀氏は嫡妻と本妻との例として、源 氏物語の葵の上は、光君の嫡妻であり、紫の上は本妻に相当してゐると言はれてゐる。