三、唐制を学んだ奈良朝の妾妻

奈良朝は盛唐の文物制度を輸入してこれが模倣に努めた時代だけに、法律の上で公然と蓄妾の習俗を認め、嫡妻に次で妾妻として待遇した。従つて妾妻の国法上の位置は、現存の養老令、律疏残篇等に徴すると、かなり詳細に知ることが出来るけれども、是等は言ふまでもなく法規の解釈であるだけに、余りに理路に奔るので、今はその多くを割愛し、他の方面から当代の蓄妾制度を観察することとした。

盛唐の文化を模倣しただけに、当代に於ける蓄妾の陋俗は前期にくらべると一段と猛烈の度を加へ、上下を通じて勇敢にこれを実行したのである。殊に古代の聟取婚(我国には古く嫁入婚は無かつた。これが専ら行はれるやうになつたのは平安末期からである)に発した夫妻別居の婚制は、当代に入るも猶且つ依然として、夫は外から通ふもの、妻は宅にゐて待つものと、習慣づけられてゐた。当時の風俗を詠んだ長歌(万葉集巻一三)に、「隠口の泊瀬の国に、さ婚に吾が来れば、棚雲り雪は降り来ぬ、さ曇りに雨は降り来ぬ、野つ鳥雉は動む、家つ鳥鶏も鳴く、小夜は更け此夜は明けぬ、入りて吾が寝む、此の戸開かせ」の実情に苦しんだ良人もあらうし、更に同集(同巻)の、「吾が背子は、待てど来まさず、雁がねも動みて寒し、鳥羽玉の夜も更けにけり、小夜更くとも嵐の吹けば、立ち待つに吾が衣袖に、置く霜も氷に冴え渡り、落る雪も凍り渡りぬ、今更に君来まさめや、さね葛後も逢はむと、大舟の思ひ憑めど、現には君には逢はじ、夢にだに逢ふと見えこそ、天の足り夜に」と孤閨に泣く妻女も尠くなかつたのである。そして此の結果は、ややともすれば夫婦の紐帯を弛緩させ、延いて男女間の風紀をして不善に導くことが多かつた。即ち夫婦生活を営むやうになっても、良人が妻の家に通うた為めに、処女と人妻との区別が不明確な場合が多く、殊に此の習俗は良人に隠し妻を、妻女は忍び男を拵へるに都合の良い機会を与へるのであった。それ故に当代にあっては貴族にも庶民にも、三角関係や五角関係は敢て珍しい事件では無く、更に重婚罪まで犯す者すらあった。中臣朝臣宅守がこれがために越前に配流されたことは有名な話である。蓄妾が猖行したのも決して偶然では無かつたのである。

妾妻なるものを国法が認め、これを独立した人格者とした結果として、現代などには夢にも考へられぬやうな、二個の不思議な問題が惹起した。即ち第一は蓄妾には親族の承諾を要したことと、第二は妻帯せる男子が売笑婦に接するのは、重婚罪であると云ふことである。そして此の二問題は我が蓄妾三千年史の長い歳月間にあって、独り当代だけにしか見られぬ問題であるので、やや詳しく述べる とする。

第一の問題は養老の戸令に拠ると、女が他の男に嫁す場合には、女の祖父母、伯叔父姑、兄弟、外祖父母等に由れて(告示の意)承諾を求めるのを原則とし、更に例外としては、若し従母従父兄弟が女と同居共財(家計を一緒にするの意)の者であれば、猶それ等の親族の承諾を得ることが条件となつてゐた。そして若し是等の尊属親、又は同居共財の親族が無かったときは、女は任意に結婚するこ とが出来たけれども、それでも猶は婚主―即ち婚姻の責任者を立てることを要したのである。

そこで問題となるのは、戸令の法文には、ただ単に「凡そ女の嫁すには」云々と記しただけで、嫡妻とも妾妻とも明白に載せてゐぬ。それ故に此の法令を実際に適用する場合に、「凡そ女の嫁すには」の文句は、妻のみの意か、それとも妾まで含まれてゐるのかといふ疑問が起つたが、明法家の解釈として令集解に「妻妾並びに同じ」とあるから、妾妻のときでも前掲の人々の承諾を得るを要し、更に 男子にあっても是等の承認を条件としたことは、戸令の結婚の条には明文は無いが、離婚の条に妾妻と云へども、離縁状には前に承諾を与へた人々の連署を必要としたことが掲せてあるので、容易に反推することが出来るのである。後世の倫理観から云ふと、妾に出たり蓄へたりするのは、各自親族の承諾を経るなどとは、全く奇異の感に堪へぬのであるが、国法が妾を公認した当代にあっては、寧ろ当然の帰結である。

第二の問題は、天干感宝元年に大伴家持が越中の国守を勤めてゐた折に、起つた事件である。当時、家持の下官である史生に尾張少咋と云ふ者がゐた。少咋は故郷の奈良に正妻が有るにもかかはらず、遊行婦の佐夫流児に惑溺したので、家持は監督の上官として少咋に意見を加へるために、同年五月十五日に左の如き端書を附して、長歌一首並に短歌三首を詠んで与へた。

史生尾張小咋を教喩す歌並短歌

七出例云(中山曰。養老令に妻女七去の法文がある)

但し一条を犯せらば即ち出さるべし。七出無くて輙ち棄らば徒一年半

三不去例云(中山曰。養老令に一女三不去の法文がある)

七出を犯すとも棄るべからず。違へらば杖一百。唯だ奸悪疾を犯さば棄れ

両妻例云(中山曰。此の法文散逸して今伝はらず)

妻有り更に娶る者徒一年女家杖一百、之を離す

詔書云

義夫節婦を愍み賜ふ

先づ件の数条を謹で案ふるに、建法の基、化導の源なり。然即ち義夫の道、情別無きに存す、一家同財、豈に旧を忘れ新を愛する志有るべしや。所以数行の歌を綴作み、旧を棄っる感を悔しむ云々(以上。万葉集巻十八所載。歌は長文を恐れ省略した)

此の端書に掲せた律条は、散遜して後世に伝はらなかつたのが、偶々、これに由って面影だけでも知ることの出来るのは、珍重すべき資料である。そして此の端書に基き、当代の有識階級の妾妻観を窺ふことが出来る。即ち史生少咋が惑溺した相手は遊行婦であって、要するに財物の授受によつて貞操を提供する、性的職業婦人に遇ぎぬのである。それであるのに家持は、これを指して「両妻の例」 に擬し、重婚罪を以て律しらるるものと解してゐた。此の一事は売りものであれ女性に接することは、直ちに婚姻であると云ふ前提に於いて、始めて考へられることであって、我が古俗である一回の肉の結合を婚姻に見た思想の在つたことを証明すると同時に、娼婦でも立派な「一夜妻」であつて、然もこれを妾妻の意味で待遇したことが知られるのである。

更に一夫多妻が公然と許された結果として、蓄妾の汚俗は上下に蔓延し、男らしい男は一人の妻を守つてはゐず、大宝・養老頃の各地の残闕戸籍帳を見るも、一妾また二妾を擁した戸主は、殆どザラに存してゐる。殊に甚しいのになると正妻の外に四妾を有してゐた者さへある。片鱗以て全体を推すことが出来るとすれば、当代の蓄妾の猖一ぶりも察知されるのである。