我国で最も勇敢なる多妻主義の実行者は、国作りの神と云はれた八千矛ノ命である。旧記によると、此の命は百八十一柱の御子を有ち、嫡妻の大和の須勢理姫の外に、筑紫宗像の田心姫、同じ辺津宮の高津姫、因幡の八上姫、越路の沼河姫、出雲の楯姫の五次妻があつたと載せてゐる。併し如何に国作りの神でも、六姫の腹から百八十柱の御子は儲けられぬ筈であるから、これは旧記に漏れた次妻 や妾妻(嫡妻、次妻、妾妻のことは追々に述べる)が沢山にあつたものと見て差支ないやうである。全体我国の多妻主義は国初時代の大昔から男子である限りは身分の高下なく実行したのであって、魏志の倭人伝に「大人は皆四五婦、下戸或は二三婦」と記してゐるのを見ても判然する。それでは此の多くの妻妾を一家に収容し又は各自に妾宅を構へさせてゐたかと云ふに、これは決して左様な次第では無く、我国の古代は夫婦でも別居するのを原則とし、妾宅の如きは有るか無きかと云ふ有様であつた。
これに就いて想ひ起されるのは、北海道に残存するアイヌの妻妾関係である。アイヌは殆ど男子である以上は本妻の外に幾人かの小妻(即ち外妾)を有してゐるのが常である。文化に取り残された漸衰期のアイヌが、一人の本妻だけでも養ふのに大変だと思ふに、それが幾人もの小妻を有つてゐるとは、誠に信用することの出来ぬやうだが、仔細に内情を訊いて見ると、それは少しも不思議が無いの である。アイヌは狩撈漁撈の氏であるから、好んで家郷を離れて、遠く山に海に長い旅をつづけるのであるが、此の旅先において到る処の女性に関係し、そこに同棲して子を儲けて暮すうち、猟期漁季が来ると又々そこを出て往く先で、同じやうな関係を拵へる。かうして関係した女性が即ち小妻なのである。素朴そのもののやうな小妻は、勿論、良人から米なら一粒、銭なら半文の仕送りを受けるで はなく、日夜ともに蟻のやうに働いて、子供があればそれを養育して渡り鳥のやうに年に一度か半年に一回、忘れた時分に遣って来る良人を持ち佗びてゐるのである。
そして、斯うした男女関係は、我国の大昔にも行はれてゐたのである。八千矛ノ命が西は筑紫から東は越路まで妻覓ぎして歩き、嫡妻須勢理姫をして、「八千矛の神の命や、吾が大国主、汝こそは、男にいませば、打ち見る島の崎々、掻き見る磯の崎落ちず、若革の妻持たせらめ」と閨怨の歌を作らせたのは、アイヌのそれと同じやうな事情が潜んでゐたのではあるまいか。勿論、八千矛ノ命は国作り の神であるから、アイヌと同じであらうと考へることは、余りに比倫を失ふことではあるが、魏志の所謂「下戸或は二三婦」の人々にあつては、必ずやアイヌのそれのやうな一夫多妻の実行者が在ったことと想ふのである。
由来、一夫多妻には種々なる形態がある。(一)同列的一夫多妻、(二)順列的一夫多妻、(三)異列的一夫多妻の三者は、そのうちの主なるものであるが、我国には是等の婚制を明確にすべき資利が欠けてゐる。例へば八千矛ノ命が須勢理姫を嫡妻(後世の本妻に同じ)とし、他に五名の次妻を有たれたことは既に記したが、併しながら是等の妻女の地位が、一夫多妻制に於ける同列的のものか順列的のものか、それとも異列的のものか判然しない。常識的に言へば、嫡妻が在る以上は、他の者は次妻か若くは妾妻であつて、同列とは考へられぬのであるが明白で無い。これは恐らく国初時代にあっては、妻女の間に同列の異列のと云ふ思想が無かつたのではあるまいか。それと同時に我が古代の貴族の配偶者の位置は、その者の出自―即ち生家の勢力の大小と、家格の高下とによって、或は前に娶らるるも次妻となり、これに反して後に嫁しても嫡妻となったことを、併せ考へなければならぬ。今これを八千矛ノ命に徴するも、命が先に八上姫と婚してゐながら、これを嫡妻とせずして、却つて後に婚した須勢理姫を嫡妻としたのは、須姫の父は根の国の主宰者である素佐男命であるために、勢力も強く筋目も高く、到底他の諸姫の出自がこれに及ばなかつたからである。そして此の例は人の代になつても夥しきまでに存してゐて、盤余彦命が九州に居られたとき、先づ阿比良姫を娶って二皇子を儲けられたにもかかはらず、後に嫡后として大和の多々良姫を納れられたのは、姫の生家が畿内に於ける大勢力家である三輪氏であつた為めである。更に御間城入彦尊が前に木ノ国造荒河刀弁の女である年魚目姫を納れて一皇子一皇女を挙げられ、次で尾張連の女なる阿麻姫と婚して二皇子を儲けながら後に娶られた大彦命の女である御真津姫を嫡妻とせられたのは、大彦家の勢力と家格とに由ったものである。されば古代の嫡妻、次妻の位置は、結婚した年時の先後又は子女の有無には関係なく、専ら妻女たる者の生家の社会的地位によつて定められたものと考ふべきである。斯うして政略結婚なるものが発生したのである。
斯かる次第であるから、国初時代の男女関係を以て、嫡妻以外の次妻を目して、直ちに妾妻であると云ふのは、少しく穏当を欠く嫌ひがあるも、その本質に在つては、後世の妾妻と全く異らぬものが存したことは勿論である。旧記によれば我国では、妾のことを「をむなめ」と謂ひ、日本武尊に随うて東国に下り、上総の海に投じた橘姫が妾の初見だと云はれてゐる。併しこれは私が改めて言ふまで もなく、記録に見えた初めと云ふことだけであって、その事実は迥に遠い神代から行はれてゐたものと見て差支ない。播磨風土記の飾磨郡貽和里の条に、景行朝に尾張連等の祖先である、長日子が遺言して、善婢と愛馬の墓とを、自分の墓と同じやうに築造させたことが載せてあるが、此の善婢とは即ち妾のことであるから、貴族とか豪族とか云はれた支配階級にあつては、蓄妾を意味した異列的の一 夫多妻制が隆んに行はれたものと信ずべきである。