熊本郷鹿本郡吉松村大字船島の菅牟田社の祭神は、元は阿蘇大神の妾であつたが、正妻の嫉妬のために、神となってもそれを悉れて、阿蘇山の見えぬ処に宮造りをするとのことである。更に鳥取県日野郡宮内村大字宮内の高杉神社の末社に一ノ御前、二ノ御前、三ノ御前と云ふのであるが、昔は祭礼の折に両御前の打合とて、二人の巫女が左右から榊の枝を持つて暫らく打合ひ神楽を奏し、これを「嫐の神事」と称してゐたと云ふことである。
そして此の二ノ御前、三ノ御前が、祭神の妾であって、遙に後世まで行はれた「後妻打」の源流であることは言ふまでも無い。京都祇園の八坂神社の末社である第一京上臈、第二岐御前、第三小上臈の如きも、又これが祭神の妾であつたことは、その神名から推すも、更に高杉神の例から見るも、明白である。
是等に拠ると、我国には神代の大昔から妾を蓄へる事―即ち他の語を以て言へば、一夫多妻の習俗が行はれてゐたのである。然らば何故に斯うした習俗が、大昔の世に発生したかと云ふに、人類婚姻史の権威であるウヰスターマークは、此の原因に就いて、(一)一夫一妻では、男子が時々制欲を余儀なくされることがある。(二)戦争その他によって捕虜とした女性を、妻妾として支配したことは、原始人にあつては殆ど通例であつた。(三)男子が若き女性、又は美人により 情を動かさるること。(四)文化の低い社会の女子にあつては、進歩せる女子よりも早老であり、且つ子を産むことが少なかつたこと。(五)是に反して男子が変化を好み、子を欲する情が深かつたこと。(六)男子の財産は、多数の妻妾の労働によつて、増加し保存されたこと。(七)多数の妻妾を有するは男子の威権を増加することの七種目を数へてゐる。
勿論、是等の諸原因は人類に於ける、一夫多妻制度に共通するものであるが、我国の大昔にあつては、是等の通則以外に我国だけに限られた、特殊の原因の存したことを注意せねばならぬ。そして此の特殊原因は、(一)祖先崇拝の結果として、子孫の繁栄を欲したこと。(二)男子に比して女子の数が多かつたこと。(三)我国の女子は、概して忍従性に富んでゐたこと。(四)罪科の代償として女子を出し、又は女子の売買が行はれたこと。(五)近親結婚が猖んに行はれたことの五種目を挙げることが出来るのである。
私は斯うして発生した我国の蓄妾の習俗に就いて、極めて概括的ではあるが、その沿革を各時代に分けて検討しようと思ふ。ただ限られた紙幅で三千年の歴史を説くのであるから、意余って筆及ばぬ点は、予め賢諒を乞ふ次第である。