婚礼の儀式に、古い嫁盗みを偲ばせるやうな習俗があるからとて、それを以て直ちに掠奪婚の名残であると速断することは危険であるが、併しながら実際に是等の類例に接して見ると、どれが独立に発達した儀式で、どれが嫁盗みの古俗であるかを区別するに、頗る当惑せざるを得ぬのである。それで茲には私が、嫁盗みの面影を儀式に残したものだと考へたものだけを掲げるとした。
沖縄県の糸満地方では、婚礼の夜は嫁方の家族一同は、平常の如く戸締りして寝に就くが、夜半になると婿方の友人数名が来て、杵で(中山曰。婚礼に用ゐる杵は、玄根の象徴である)無理に戸をこぢ明け花嫁を連れ去るのを習ひとしてゐる。同県の宮古島では、新婦が自分の部屋に蚊帳を釣つて寝てゐると、夜の十時頃に婿の友人三四名が迎へに来て、友人達は蚊帳を釣つたままその中へ新婦を入れて連れて行く、これを「嫁引」と云ふ。新婦はかくの如く全く姿を見せずに連れて行かれるのであるが、婿の家に着くと裏口から入り、そのまま蚊帳を釣つて合衾するのである。此の習俗は(花嫁を見るこ とを禁忌する咒術的思想が、多分に含まれてゐることは勿論である)単にこれだけ聞いたのでは、果して嫁盗みの遺風であるか否か判然せぬが、支那の山東省の婚礼は、新婦は赤い布で包まれたまま輿に乗つて行くが室外に出るときは姿を見せず、これは嫁盗みの残習だと云ふから、宮古島のそれも斯う考へて差支ないやうである。
そして是等の婚礼を知つて思ひ出すことは、内地にもこれに似た二三の習俗の存したことである。富山県城端町では婚儀が整ひ新婦を新郎の許に居るときは、駕籠に乗せてそれに封印をつけてやるが、この封印は新郎が躬ら解くことに定まつてゐて、他の者は一切手を触れることは出来ぬ。これなども花嫁の姿を見せぬためから工夫されたものであらう。鳥取県浜村の婚礼は、三々九度の盃が終ると、媒酌人が花嫁と花婿とを式場の中央に連れ出し握手させ、四畳敷もある円錘型の枕蚊帳を持ち出して頭上から被せ、その蚊帳の上から「祝ひ水」と云ふのを笹の葉でまきかけ、列座の者が祝ひ水の謡を合唱しながら手をつないで蚊帳の廻りを右廻りにぐるぐると匝り、謡が終るとその蚊帳を外すさうである。此の習俗なども単にこれだけ聞いたのでは、蚊帳を被せる理由が少しも判然せぬけれども、宮古島のそれに対照し、更に支那のそれを参考すると、古き嫁盗みの破片が儀式化されて残つたことが会得される。長野県上田市地方では花嫁に対し、土地の子供達が大きな鶏籠を被せる風習なども、或は此の蚊帳の簡略化されたものかも知れぬ。
沖縄県には嫁盗みから生れた儀式の一つで、猶ほ記さなければならぬ大きな問題が残つてゐる。即ち久高島の「刀自覓き」がそれである。これに関して柳田国男先生の述べる所は左の如くである。
久高島に最近まで行はれた刀自覓きの習慣であるが、此島で人の妻となる者は、必ず祝言の席上から走つて山林に遁げ込み、十日二十日の間は夫に捕へられぬやうにせねばならぬ。向上会 といふ青年団体の骨折で、その期間を一般に四日とかに定め、女たちは寧ろこれを悦んでゐる。今の外間のノロクモイ(内地の巫女と同じ)の如きは、七十二日の間隠れてゐたと自慢してゐた。御嶽(内地の神社の如きもの)の中には、男子が憚つて入らぬ故に、ここへ遁げ込めば幾日でも捕へられぬのだが、里へ屡々食事をしに出たり、或は自分が退屈して、そつと居所を知らせに来たりするから、三週間とは続かぬものだと云つてゐるさうな。それでも夫は多くの友人に助力を頼み、実際、血眼になつて搜しまはり、つかまれば又髪の先をつかんだりなどして、手荒い折檻をするさうである。昼間見つかれば一間に押込めて張番を付け、夜見つかれば直ちに寝てしまふ。この時花嫁は必ず悲しい声を立てて泣くさうだ。これを聞きつけて附近の人々、どこそこの刀自もたうとう捉まつたと見える、随分長かつたとか、ちと早過ぎるとか評判すると云ふ話である。(国粹二ノ三)
此の刀自覓きに似て、然も極めて簡略化されたものが伊豆の大島にある。同地では結婚式の最中に、花嫁は隙を見て、来客や家人に知れぬやうに、実家へ逃げ帰るのが礼儀であると云はれてゐる。若し逃げ帰らぬ者があると村から卑まれる。翌朝になると婿が嫁を迎へに往き、相携へて来るのである。石川県能美郡鳥越村附近では、花嫁は村内は勿論のこと、つい隣家へ嫁すのでも、必ず新しい草鞋を穿き、新しい菅笠を冠つて往くさうであるが、これなども古く女子が田や畑で働いてゐるところを、盗まれた風俗を儀式として残したもののやうに思はれる。