五、男女謀し合せて行ふ嫁盗み

相手方の内諾を得て行ふ嫁盗みも、更にこれを細別すると、第一は妻となるベき女子と謀し合せたもの、即ち男女だけが合意の上で親達の少しも関知せぬものと、第二はこれに反して、親達も娘と共に内諾を与へたものとがある。併しこれは前者にあっても、既に嫁盗みの変体であるのに、更に後者にあつては全く嫁盗みの埒外に出るので、ここには前者のみ記し、後者は次項に述ベるとする。

長野県の木曽は大昔から別天地とて、特殊の風俗が多く存してゐたが、その中でも嫁盜みは此の地の名物として数へることが出来る。同地では若い男女が許し合つてゐでも、身分が違ふとか又は家筋が悪いとか云うて、女の親達が承知せぬときは、男は女と諜し合せ盗み出してしまひ、後に仲介人を立てて親許へ、娘を妻に貰ひたいと第一回の交渉をする。娘の親達も相手の男が不充分ながらも、辛抱の出来る者なれば余り苦情も言はずに承認するが、若しさうでないと即座に拒絶する。それでは拒絶されたら直ぐに娘を返すかと云ふに、男の方では別な仲介人を設けて第二回の交渉を試みる。親達は又も拒絶する。更に第三回第四回と仲介人を遣って交渉させ、初めは懇願、次は嘆願、後には哀願と云つたやうに、手を代へ品を換へて頼み込むが、親許でも強硬に拒絶する。かくて愁訴と拒絶との根くらべが開始される。そして未解決の間は男女とも夫婦関係をせぬことになつてゐる。

然るに事件が縺れて来ると、半年や一年では解決せず、稀れには二年も三年もかかることがある。斯うなると、さう何時までも他人でゐろ訳にも往かぬので、実際の夫婦としての生活もすれば、子供も儲けることもある。そして長いのになると五年間も未解決のままで過ごし、女の父親が死んだので漸く母親の承諾を得て、正式の夫婦となった例さへある。それでは親達が何時までも強情を張つて承諾せぬときは、その結果はどうなるかと云へば、親族なり肝煎なりが仲に立つて、娘を義絶して一段落をつけるのである。木曽では昔は女ばかりでなく、婿に欲しいと思ふ男があると、それを盜んだものだと伝へられてゐる。

鳥取県西伯郡夜見浜地方では「嫁もぞひ」と称する婚制があるが、大抵は娘と馴れ合ひの上で、男の友人に頼んで担いでもらふと云ふことである。出雲国で嫁盜みのことを「思し立」と云うてゐることは既述したが、更に大社町地方に行はれるものは、必ずしも当事者間に意志の疏通が欠けてゐるのではなく、その分量から云ふと、却って新婦となるベき女子だけは承知しての上である。そしてこれを行ふ場合は、男女は予め謀し合せ、先づ女は竊に自分の睛衣を持ち出して身に付け、夜に入るのを待つて自分の家の戸口に片足を入れ、簡単に「思し立」をする旨を述ベて、両親や同胞に別れを告げる。するとその言葉の終るか終らぬうちに、男の方で用意してゐた友人五六名が飛び出して来て、女 を矢庭に担いで男の宅へ連れて行く。女の家では直ぐに近所の人々を頼んで、後を追ひかけ取戻さうとして、両者の間に時に激烈なる争闘が行はれるが、結局、この折に男の方が難なく女を盗み了せれば、その男女の結婚は許され、媒酌人が出来て双方和解し、翌日はその争闘に参加した人々を招待して、盛んなる結婚式が挙げられる。新婦が前夜の争闘で泥まみれになり、綻びだらけの睛衣で三々九度の盃をすることなども珍しくない。そこで若し争闘の場合に、女が生家の方に取返されたときは、その男女は「縁なき者」として、永久に断念すベき習ひとなつてゐる。この地方の三十歳以上で中産階級以下の夫婦は、殆んどその全部が、此の「思し立」によつて結婚したものであると云はれてゐ る。昨今ではかかる風習も年と共に少くなつたが、それでも神無月のお忌荒しが稲佐の浜に吹きすさぶ頃になると、霜に凍る夜半「思し立」の群衆が挙げる争闘の叫びが、町の人達の夢を破ることも往往あるとのことである。