嫁盗みはその原則としては、妻となるベき者の内諾は言ふまでもなく、その父兄の承諾をも経てゐぬことが当然であって、且つそれが此の婚制の最も古い形式なのである。先づこれに就いて述ベる。
私の生れた栃木県足利地方では、古く嫁盜みのことを「嫁かつぎ」と称し、後には「庭ばなれ」とも言うたやうである。それで此の方法は当事者には無断で行はれたものである。長野県戸隠辺の村々では、明治二十七八年頃までも、自分が妻としたいと思ふ女子を与へぬときは、友人を頼み折を窺ひ盗み去るのを習ひとした。山梨県南巨摩郡の村落では、若者が我が妻にと所望しても、本人及び両親とも不承知の場合は居村の若者仲間に事情を訴へると、若者等はその女を盜んで来て所望者に与へ、かくて無理無体に結婚を成立させるのである。猶ほ同県の郡内地方では、大正十三四年頃まで「担ぎ出 し」と称する嫁盗みが、猖んに行はれるので、猿橋警察署から布告を発して禁止したことがある。静岡県の初島は熱海町から三海里ほど隔てた海中の孤島であるが、ここでは嫁盜みのことを「ドラ」と云ひ、近年まで公然と行はれてゐた。そして此のドラには原因が二つあつて、一は男女相思の間なるも、長男とか一人娘とかいふ場合で、互ひに結婚の出来ぬものか、二はそんな関係はなく単に盗んで来る場合である。斯うして盗まれた女子の親は、渋々ながらも承諾するのが常であつて、明治以前は島内ばかりでなく、対岸の村々へまで舟を漕ぎ出して嫁盗みを遣つたものである。そして此のドラと云ふ語は、ドラ猫、ドラ息子のそれと共通のもので、小賊を泥棒といふドロも、これの転訛だと云ふ ことである。
京都に近い紅葉の名所、高尾山の麓である梅ヶ畑村には「かつぎ」とて、嫁を盗むことが近年まで行はれてゐた。同地の女子は毎日のやうに老若うち連れて山に入り、柴や薪を採つて京の町へ売りに往くのが務めとなつてゐるので、若者は此の路次を晏して嫁盗みをする。同行の老婆達も、自分が若い折に担がれた経験があるので、そんな騒ぎがあつても別段に驚きもせず、ただ担がれた女の親達にその事を伝へるだけで、親達も見なれ聞きなれてゐるので深く意にも留めず、従って娘の行衝を探さうともせず娘の心任せで、嫌でさへなければ簡単に婚姻が結ばれるのである。岡山県小田郡神島村は漁村であるが、ここでも思ひをかけた女子の外出を窺ひ盜み去る。これを「かたげ」と云うてゐる。 盗んだ翌日に媒酌人を立てて親元へ交渉させるが、親が婿として不満があれば娘を引き戻し、さうでなければ親自身が米一升を携へ婿の許へ出かけ承諾の意を示し、その後に吉日を択んで婚礼式を挙げるのである。鳥取県八頭郡菅野村では、若者が思ふ女を妻にしようとするには、村内の若者連に頼むと、何月何日に貰つてやると、先方へは一言の挨拶もなく極めてしまひ、その後でぽつぽつと相談を始め、女の方で承知せぬときは無理矢理に引張つて来るさうである。島根県の出雲では山奥でも半島でも、「思し立ち」とて、男が一旦思ひ立つたが最後、女の心持なんどに頓着なく、引摺り出して駈落し、無理に妥協さしてしまふことが行はれた。これも嫁盜みであることは言ふまでもないが、併し此の「思し立ち」は、必ずしもかかる形式のものばかりでなく、予め女子と共謀して行ふものもあるので、詳しいことは次項に述ベる。
兵庫県由良町では、中流以下の独身の男子があると、友人が集り相談して誰彼の家の娘が妻に相応外出を待ち、それと見るや手どり足どりして、独身者の家に担ぎ込み鉄漿をつける。若し娘が拒めば若者の一人が、鉄漿を喞んで娘の口ヘ吹込む、これを「潮吹き」といふ。かうすれば娘は諾否にかかはらず、その者の妻となるベき義務が生ずるのである。そしてかかる乱暴の目に合はされた娘の親は、却つてそれを誇らしげに「娘が昨夜担つがれた」などと言うて済してゐるさうだ。
高知県は、此の結婚法が県下の到る所で行はれ、これを「嫁をかたぐ」と称し、その方法は各地と同じく、女子の外出を窺つて奪ひ去るのであった。殊に旧藩時代には、此の習俗は黙許されてゐたのであるから、その猖んであつたことが想像される。それ故に同県における嫁盗みは明治期に入るも公然と行はれ、更に大正期になつても、決して珍しい事ではなかつた。左にその一例として、大正八年九月に大阪控訴院で「嫁かたげ」のため、殺人放火の大罪を犯し、第一審に死刑を宣告された同県長岡郡西豊永村の馬場猛猪(当時二十一歳)の控訴公判の陳述は、よく同地方における実情を尽してゐるので要点だけを抄録する。
被告猛猪は、同村の坂本長太の二女瀧恵(当時十六歳)に恋慕し、大正七年二月中に「嫁かたぎ」と称する手段にて、瀧恵を自宅に連れて来たが、この手段は妻とすべき女を、先方に無断にて同行するものであつて、猛猪は斯くして想ふ女を手に入れ、二三ヶ月は夢の如く暮すうち、同年五月十五日瀧恵は猛猪方を逃げ出し、親類に身を寄せたので、猛猪は狂気の如くなり、自分の小指を切つて親の長太を訪ひ、瀧恵を元々通り自分の妻に呉れるやう嘆願したところ、長太は「お前の小指どころか、両腕を切つたとて娘は遣らぬ」との返答だつたので、同月二十二日の夜に遂に長太の家に放火し、その混雑に紛れ長太夫婦を射毅し、瀧恵を連れて山中に隠れたが、捕縛されたと云ふのが罪状の概略である。
嫁盗みは古くから各地に行はれてゐただけに、その結末は土地の習慣法で解決され、かくの如き流血の惨事を見ることは稀有であるが、これは要するに古き習俗が毀たれて、新しい時代に遷る過渡期の産物と見るベきである。
九州は嫁盜みの本場とも見るベき土地であつて、各地に亘りこれが習俗の存在せぬところは無いほどであるが、茲には僅に一二例を挙げるにとどめるとする。小倉市外の長浜浦は、玄海灘に面した漁業地であるが、この村では想ひを懸けた女があると、友人に頼んで誘拐してもらひ、切なる思ひを打明けて女を口説くが、女が意に従はぬうちは幾日でも承知するまで一室の内に押込めて置く、さうすると流石に強情の女でも、遂に我を折つて嫌々ながらも承諾すると、それから媒酌人を立てて親元へ申込み、親達は娘が承知ならば、異議なしとて婚姻が成立する。俚俗これを「かどはかす」と云うてゐる。長崎県の天草地方には今でも女を盗み出して、妻とする旧習が存してゐる。女を盜む日には夫となるベき婿の家では公然と酒宴を張り、親族や近隣の者を招いで饗応し、兎角してゐるうちに、若者連が盗み出して来るのである。かくてその娘が承知すれば何事もないが、若し不承知の場合には、日を経て実家に返すことになつてゐる。但しその多くは双方和解して、婚儀が整ふさうである。
そして此の嫁盗みは、私の寡見のためか北越、奥州、北海道には尠いやうである。猶この婚制は原則として女を盜んで来ても、結婚式を挙げぬうちは、単なる「客分」として待遇し、決して夫婦の交りをせぬことになつてゐて、これに反くやうなことがあれば、男女とも指弾されるのである。