三、嫁盗みは何時頃から始まつたか

我国の嫁盜みは、何時頃から始まつたかと云へば、誰でも直ちに想ひ起すことは、高志の八岐ノ大蛇が、国津神である脚摩乳、手等乳の娘を毎年一人づつ七人まで取り喰うたとある神話は、即ち嫁盗みの民俗が斯様に作られて伝へられたといふ一事である。

併しながら此の事は必ずしも嫁盜みだとは言へぬところがある。余り考証めいたことは茲には略すとするが、これに較ベると大国主命が出雲の宇賀里で、綾戸姫を妻覓ぎされたことは、後世の嫁盜みと見ることが出来るやうに思ふ。此の神は多妻主義の我国でも、稀に見るほどの多妻実行家で、西は九州から東は越後までの国々に妻があり、その間に儲けた御子は百八十一柱と云ふのであるから、数の多いうちには、斯うした妻覓ぎがあつたとて決して不思議ではない。私は我国の嫁盜みは、神代から行はれたものだと考へてゐる。