嫁盜みと云ふが如き野蛮な民俗が、如何なる理由で発生したかに就いては、学者の間に異説がある。第一は部落内で女児を殺害(食物を獲ることの困難、及び戦争の時に足手纏ひとなる関係その他の事情)したので、女子が不足を来たし、それを補ふために他部落から女子を掠奪したのに原因するといふ説。第二は族霊信仰から、族内結婚が禁止されてゐたので、族外結婚をするために女子を掠奪したのが原因であるといふ説。第三は古代の農業及び機織は、専ら女子の手に俟つたので、是等の労働に服させるために、女子を奴隷として掠奪したに原囚するといふ説。第四は原始期の共同婚にあつては前述の如く、妻は男子の共有であつて、これが独占権を主張することが出来なかつたのを、戦争または其の他の事情によって掠奪した女子は、その掠奪した者の独占に帰するので、それが嫁盜みの原因であるといふ説である。
それでは我国の嫁盜みの起原は、以上四説のうちの何れに属するかと云ふに、私の考へるところでは、必ずしも一説だけで解釈すベきものでなく、四説とも悉く交渉を有してゐるやうに信じたい。我国の嫁盜みの民俗は、現今に至るまで立涙に存続してゐるけれども、発生してから余りに多くの年処を経てゐるのと、その間に種々なる嫁盜みの方法が工夫されるやうになり、然もそれ等が雑然と混淆されて、古い発生当時の婚制を尋ねる手掛りを失つてしまつたのであるから、今からその一説だけで解釈することは無理だと考へてゐる。
そして嫁盗みにも幾つかの分類がある。第一は新婦となるベき者は勿論、その両親の承諾を得ずに行ふもの、第二はこれに反して、予め新婦との打合せがあり、ただ両親だけが承知せぬので行ふもの、第三は婚資または婚礼の費用を省くために、特に嫁盗みの方法を採るものなどがそれである。私は此の順序で記すとする。