一〇、何故に宝物が多く偽作されたか

さて、斯うした伝説つきの宝物は、まだ各地に渉り全く無数に存在してゐる。私の知つてゐる所でも文福茶釜とか、狐の謝り証文とか、蓮の曼陀羅とか、絵馬が農作物を荒すとか云ふものが方々にある。それでは何故に斯うした宝物が、そんなに沢山あるのであらうか、それに就いて考へて見たい。

由緒の正しい神社や仏閣の名宝佳品は別物だが、これ以外の伝説つきの宝物は、概して江戸時代二百六十年間に、為めにする所があつて拵へられたインチキ物である。そして、之には大体三つの理由が伴ふのである。第一社寺に関するものでは、奇想天外から落つるやうな宝物を供へて置くことが、参詣人を集める所以でもあるし、且つ宝物拝観料を収める手段でもあつた。第二は交通不便な江戸期にあつて、殊に都会生活をしてゐる者には、海山幾百里を隔てた社寺へは、参拝したくも思ふに任せぬのが常であつた。それで此の信仰心を利用し、併せて社寺を経営維持する必要から、社寺の方から盛んに出開帳と云ふことを遺つたものである。今日でこそ出開帳などは滅多に在りもしないし、又たまたま在つたところが誰も振り返つても見ぬが、これが江戸期には年に幾回となく行はれ、遂に開帳屋とも称すべき一種の営業人を生むやうになつたのである。そして是等の営業人はあらむ限りの智嚢を絞つてインチキ宝物を作り、それを金額により幾種でも賃貸したものである。出開帳する社寺の方でも此の種の宝物の多いほど賽銭が多いので借入れたものである。天狗の羽根とか、頼朝公十三歳の髑髏とか、河童の片腕とか云ふものは、殆ど悉く此の種に属する宝物なのである。これに就いて面白い話がある。それは東京下谷区谷中町の大乗山長運寺にある、相州大磯の遊君虎ヶ石の由来である。これは或年のこと、大磯の蓮台寺が出開帳して曽我兄弟の遺物と共に、此の虎ヶ石を持つて来たのであるが、此の開帳が大失敗に終り、宝物の虎ヶ石を長運寺に抵当に入れて後始末をしたが、その抵当流れだと云ふことである。それ故に現に大磯にある虎ヶ石は偽物だなどと云ふ者さへある。併し斯うした宝物に就いて、真偽の詮索をするのは無用の沙汰である。

第三は社寺を離れた宝物であるが、これも伝来の確なものは別な話だが、その多くは伝説と歴史とを穿き違ひ、名門たり旧家たらんことを誇示する以外には、何ものも無いと云うても差支ないのである。(犯罪公論三ノ二)