日蓮聖人は鎌倉を中心として、諸国に法華経の功徳を宣伝してゐたが、或時、埼玉県児玉町に往き、善男善女を集めて一場の法談を試み、その夜は久米家(民之助氏の先祖)に宿つた。同家では此の高僧をお泊めしたことを無上の名誉とし、真心を籠めてお取持をするのであつた。
翌朝、日蓮聖人は法弟を従へ、久米家の人達や信徒に送られて出発したが、久米家では、これほどの高僧に又とお宿する機会もあるまいから、家の誉れ子孫への宝として、せめてお題目の染筆をお願ひしようと、主人は紙を手にして日蓮を追ひかけた。然るに聖人は早くも見馴川を向う岸へ渡つたが、折悪しく此の日は水嵩まさり久米家の主人には渡ることが思ふに任せぬので、大声あげて此の事を語ると、聖人は腰から矢立を取出し筆に墨ふくませ、向う岸に主人が拡げた紙に南無妙法蓮華経の題目を認め、鎌倉さして帰られた。今に川越しの題目とて久米家に秘蔵されてゐる。
文明年間に、蓮如上人は愛知県知多郡大府村の南島へ巡錫された折から、そこの成田長四郎(成田氏の先祖)が莚を織つてゐたのが目につき、家の縁に腰かけて休んで居られたが、菩提のためにと傍らにあつた莚へ、筆太に南無阿弥陀仏と名号を記されて帰つた。此の莚名号は成田家の宝物として伝はつてゐるが、或年に火事に遇ひ家財を残らず焼失したが、名号だけは自然と飛び出して八幡社の松の木の枝にかかつてゐた。それを村の人達が取り降さうとしても果さず、成田家の者が拝んだら容易に降りたと云ふことである。