静御前が京都から鎌倉へ召され、鶴ヶ岡八幡宮で源頼朝の面前において舞踊した時には、既に源義経の胤を宿してゐたのである。猜疑深い頼朝は静が「昔を今になす由もがな」と詠じただけでも不快の感じを持つ位であつたから、静の腹から出た義経の子を、何で無事に助けて置くべき筈があらう。静が鎌倉の仮寓で分娩するのを待ちかねてゐたやうに、その赤児は直ちに川へ投げ込まれてしまつた。
愛人に離れ愛児に分れた静は、人の世の情ない有様に深く嘆き悲しんだが、愛人である義経が奥州の平泉に居ると聞き、せめて今生に一目なりとも逢ひたいと思ひ立ち、産後の身を侍女に扶けられ、鎌倉を後にして奥州街道を武蔵国北葛飾郡静村大字松永まで来ると、重なる心労と馴れぬ旅愁とて発病し、遂に此の駅路で一代の麗人も帰らぬ客となつてしまつた。遺骸はそこに葬り一本の杉を植ゑて墓標としたが、今に七百年前の尽きぬ恨みを残してゐる。
静の所持品は菩提寺である、利根川を隔てた下総国猿島郡新郷村大字中田の光了寺に保存されてゐるが、その中に静の舞衣とて、忝なくも御鳥羽院から賜つた袞龍の御衣と云ふのがある。これは曾て静が白拍子として京都に居た折に、雨乞のため神泉苑で舞ひ、雨を降らした恩賞として、賜つたものだと伝へられてゐる。