京都市伏見区墨染町の欣浄寺に、小野ノ小町が作つたと云ふ深草少将文張りの像がある。私は先年大阪に仮寓してゐた折に此の寺へ参詣し、親しくその像を拝観し且つその由来を寺僧から聴くことが出来た。
それに由ると、此の地は古く小町の住んでゐた所で、庭の隅に小さな池が残つてゐるが、小町は朝夕に此の池水に姿を映して化粧したので、今にこれを姿見ノ池と称してゐる。その池の側に竹藪の径があるが、これが深草少将の九十九夜を小町の許に通ひ、遂に雪に凍え死んだと云ふ、有名な竹の下径だと伝へてゐる。そして此の像は、少将が小町へ贈つた千束の文を、少将の死後に菩提を弔ふために小町が像に張つて作つたものであつて、像の腹中に少将の歯二本と文が二三本、入れてあるとのことであつた。寺僧が厨子の扉を開いて見せてくれたので、よく見るとそれは乾漆仏であつて、腹中の歯だけはそのまま残りてゐたが、文反古は紙魚のためにぼろぼろになつてしまつて字体も分らぬ程で あつた。
文張りの像―そんな物は欣浄寺より外には無いと思つてるたところ、他にも立派な物のあることを聞いた。場所を失念したが、此の方は和泉式部であつて、式部は我が子の小式部に先立たれたのを悲しみ、後世を弔ふために曾て京都と丹後と別れ往んでゐた頃に、京の小式部から寄せた玉章を以て小式部に肖せた像を張り作り、同じくこれを文張りの像と称して、その寺の宝物となつてゐるとのことである。
小町の故智を式部が真似たか、その詮索は伝説には必要が無いので略すが、如何にも人情味の籠つた話である。