五、遊女が遠流された二三の事件

遊女で流罪になつた者は少くない。そしてこれが罪名は殆ど悉くが放火犯であつた。女子に放火犯の多いのは昔も今も変りは無い。全体、江戸期の法令から云へば、放火は死刑と定まつてゐたのであるが、同じ放火罪でも遊女のは多少とも情状を酌量すべき点が存してゐた為めに、死一等を減じて流罪としたのである。前に載せた天保四年の遊女三名は、新吉原角町の遊女屋たみ抱へで、藤江(廿六歳三宅島へ)清瀧(廿五歳、新島へ)吉里(十七歳、八丈島へ)とて、三人共謀して天保元年十一月十八日夜に主家を焼き払ひ、逃走する目的で放火したのであるが未遂に終つてしまつた。原因は女郎勤めの苦しさと、借金の嵩むためであることは云ふまでもない。そして捕縛されてから遠島になるまで、足かけ四年の永い月日を要してゐるのは、裁判の都合と云ふよりは一日も余計内地に置いてやれの、掛り役人のお慈悲が加はつてゐたのかも知れぬ。それから十年ほどたつた弘化二年八月に、同じ吉原の梅本屋佐吉方の遊女福岡以下十六人が団結して、楼主佐吉の虐待に堪へかね、家に放火し混雑にまぎれて逃げ出し、自身番へ駈込み訴へをした事件があつた。此の遊女虐待は実に酸鼻の極であつて、全く活地獄の苦しみに外ならぬ事は、一件記録にも詳しく載せてあるし、また遊女全体が団結した事からも推測される。町奉行はこれに対して楼主佐吉の財産を没収した上に八丈島へ流し、主謀者たる遊女福岡以下四名だけは、三宅、御蔵等の島々へ流し、外の遊女十二名は押込の判決か言ひ渡した。猶この機会に云ふが、共犯者は必ず別々の島に遣り、決して同じ島に置かぬのを原則とした。斯うして遊女と放火と遠島とは、全く因果関係に置かれてゐるやうであつた。よく講談で聴く侠客腕の喜三郎と通謀して、八丈島を破つたと云ふ吉原大阪楼の遊女花鳥なども、同じく放火犯で島流しになつたのだと云ふことだ。

幕府の天文方であつた高橋作左衛門が、蘭医シーボルトに日本の地図を与へたと云ふので罪に問はれ、その外二名がこれに連座して八丈島へ流されたが、その折に同船した囚人に五十歳ほどの老婆があつた。これも八丈島へ送られるのであるが、此の婆さんの罪状は実に振つてゐた。それは文政十二年の三月に江戸に大火があり、多数の焼死者を出したが、此の婆さん、その焼死者の幽霊となつて人を欺き盗みを働いたのである。その仕方は身に白衣を纏ひ、腰から下は黒い布で隠し、背には同じ黒い板の幅広きを負ひ、髪を振乱してちらりちらりと人の前に現はれ、逃げるときは板が黒いので人目には消え失せたやうに見える。そして焼死者の幽霊が出たと人々が立騒ぐうちに、素早く盗みをする新手であつたが召捕られたのである。

佐渡の島へ流される人は、伊豆七島のそれとは違ひ、悉く幕府で経営してゐた金山の水汲み人足に用ゐられたのである。これは又非常の苦役であつて、さすがの悪党でも「佐渡の金山此世の地獄、登る梯子は針の山」と歌つたほどで、三四年勤めると大抵死んでしまつたやうである。それ故に此の人足が不足すると、その筋でも悪党狩をして佐渡へ送る。又それを免れようとして悪党が逃げ廻るなど騒ぎをやつたものであるが、極悪人が定めの苦役を勤めただけに、艶ツぽい話は少いやうである。