江戸期における僧侶の堕落は、実に筆にも絵にも描けぬ醜状であつて、女犯のために寺を追はれ島に流された数は決して尠いものでは無かつた。殊に寛政三年に脇坂中務大輔安薫が寺社奉行となり、道楽坊主を片端から検挙したので、都鄙の寺院は慄ひあがつたものである。その脇坂侯も一度退役したが、文政十二年に再勤することとなつたので、臑に疵持つ坊主どもは薄氷を踏む心地であつた。当時の川柳点に「又出たと坊主びつくり貂の皮」とあるやうに、脇坂侯の表道共は貂の皮の投げ鞘かけた槍であつたので、これを望み見て狼狽した坊主の腐敗を詠んだものである。従つて大検挙が続行し、寛政八年には一時に六十八名の坊主が哂しものとなつた。これは今の日本橋の袂に小屋を掛け、そこへ坐らせて三日間哂した上で、一寺の住職なれば法規により処分し、住職以下なれば本寺に引渡すことになつてゐた。そして斯うした哂し者は毎月のやうにあり、島流しになる坊主も年々増加するばかりであつた。
天保頃になると遠島船は、幕府御船手方の向井将監と遠藤近江守が一年交代で支配し、其年の九月末か十月初めに、深川永代橋際から出発した。愈々明朝船出といふ前夜には俗にツマと称し、伝馬町の牢内で流人だけに月代を剃らせ髪を結はせ、銭を出させて酒肴や茶菓など買ひ、一夜を楽しく過させる。つまり送別会の意味であらう。それが終ると牢替とて船牢へ入れる。流人は男女併せて二十三人までは一艘に乗せるが、それ以上になると二艘にするか、又は翌年廻しとする。船には「遠島者御用船」と白地に黒く染めた小幟を建て、外に御船手方の紋を染めた小幟を建てた。護送監視の役人、船頭水主の人数は判然せぬが、万事の用意が調ふと出帆する。その際は囚人の親族や友人が集まつて来て最後の面会をする、差入物をする、女房や子供が来て名残を惜しむなど混雑するのが常である。愈々時刻になると、船で法蝶貝を吹き鳴らすのを合図に、碇を巻き帆を揚げて出かける。見送り船が五艘もつづくが、品川沖へ出ると遠島船だけになつて他は戻つてしまふ。天保四年九月の「遠島者人別帳」には合計二十二人を載せてゐるが、此の内訳は武士二名、僧侶六名、遊女(その罪状は後で記す)三名、町人無宿など十一名であつて、更に島別にすると三宅島へ二名、新島へ五名、八丈島へ十五名となつてゐる。牢は横四尺に縦二間を船底に大格子戸で切り、そこへ二十人からの大勢が寝るのであるから、その窮屈さが思ひやられる。尤も、女囚だけは「別囲ひ」とて、板で仕切つた中へ入れ、外からは顔も見えぬやうになつてゐた。浦賀の船番所を越すまでは、役人も船頭も慎んでゐるが、そこを過ぎると囚人を集めて賭博を始めテラ銭を取る。そして男女とも綺麗な着服を脱がせて囚衣と着替へさせてしまふ。更に牢内が不自由なら甲板へ出してやるからとて金をとり、飯の菜も、飲み水も、蝋燭も、塵紙も、市価の幾倍といふ高値で売りつける外に、船玉様へのお燈明料だとか、ツメ(不浄場)の掃除料だとか、流人頭へ船中無事の祝儀だとか、何とか名目をつけて、囚人から二朱三朱づつ金を捲きあげ、三宅島へ着く十五六日間に一人前七八両づつも紋られる。金を持つてゐぬか持つてゐても出さぬと、あらむ限りの虐待をする。身から出た錆とはいひ、実に目も当てられぬ有様だ。かくて目的の島へ着くと島役人に引渡し、船は赦兔の者があればそれを乗せて帰るのである。
江戸期の終り頃になると、島の人達も流人を相手にせぬやうになつたので、内地の親族や友人から送り届けのある者は格別だが、その他の者は馴れぬ漁業や農事の手伝などして、漸く生命をつなぐだけの生活をした。島には役人がゐて是等の囚徒を看守することになつてゐたが、それは名ばかりであつて、彼等はかなり悪い事もしたやうである。流人の数は時により多少の出入のあるのは勿論だが、大体において八丈島に百二三十人、新島に七八十人、三宅島に五六十人、此の外に神津、御蔵、利島とも二三人づつであつた。八丈島に大勢居たのは既載の浮田秀家の子孫が繁殖して四十人ほどになり、それが加算されてゐたからである。伊豆七島は●(いしへんに堯)●(いしへんに角)の地で米麦が十分に稔らぬため、粟や稗を常食としたので、凶作がつづくと忽ち餓死する者があつた。そして流人がこれの真ツ先に斃れることは云ふまでもない。此話を聞いて関東に薩摩芋を持込んだ青木文蔵が、享保年中に官許を得て伊豆七島にも移植したので、流人の餓死を見ぬやうになつたとある。