三、屍体を塩漬にした絵島の配流事件

江戸城の大奥で威勢を振舞つてゐた年寄の絵島が、正徳四年四月十二日に将軍家網の生母月光院の代参として、芝増上寺の御霊屋へ参詣した(その実際は空駕籠を寺へ遣るのが通例となつてゐた)帰途に、木挽町の山村座で買馴染の役者生島新五郎と媾曳したことが発覚して、信州高遠へ配流された(表面は藩主内藤侯へお預けと云ふ事になつてゐる)ことは、余りにも有名な事件である。全体、大奥の女中が役者を買ふことは、何も絵島に始まつた事でも無ければ、また絵島一人に限つた事でもなく、大袈裟に云へば、かなり大ッぴらに行はれたものである。西鶴の「松島の長持に隠れ徂く春や」とある如く、馴染の役者を長持に入れて大奥へ運び込むことなども、決して珍しい趣向では無かつたのである。現に絵島が芝居へ往つた日は、同僚の宮路や桜山と打合せて一緒に遊んだのである。それが絵島だけ罪人になつた―早く云へば片手落の裁判になつたのは、裁判長であつた老中秋元但馬守喬知が、絵島の養女が水戸の家来奥山喜内の娘であつたので、水戸家を憚つた仕業であると伝へ、又一説には老中秋元は非常の好色漢であつたので、岡焼のために此の事件を弾圧し、刑死者を出したり流罪七八名を出すに至つたのだとも云はれてゐるが、いづれにしても秋元喬知の無粹のために事件が大きくなつたことだけは争はれぬ。併しさうした事情はここでは深く言ふことを避け、諦地高遠における絵島の二十八年間の、孤独の生活に就いて記することとする。

絵島が高遠へ遣られたのは、精神的にも肉体的にも充実豊満しきつた三十三歳の春であつた。江戸で生れて若い頃には尾州家の奥勤めをなし、男の匂ひのせぬ別世界の生活ばかり送つてゐた身が、本丸に転じて月光院のお附きとなり、追々出世して大年寄にまでなつたので気がゆるみ、それまで抑へて来た肉の衝動が一時に堰を破つて身内に漲つたのである。それに此の月光院が又稀代の淫婦であつて、初めは町医勝田玄哲の娘おきよと云つたが、六代将軍家宣の手がついて七代家継に腹を貸したばかりで御部屋様となつたものの、家宣に死なれてから若後家が通せず、始めは能役者上りの老中間部越前守を城内に引留めて置いて寵愛し、後には八代吉宗にお膳を据ゑたほどの強者であつた。古いやつだが勇将の下に弱卒なしで、此の淫蕩振りを見せつけられた絵島に、男に近づくなとは無理な註文であらうし、又さうした時代だけに奥女中が役者買ひするなどは、恐らく河重の屁ぐらゐにしか思つてゐなかつたのが、飛んだ野暮天の老中秋元の手にかかつたばかりに、猪や猿を相手に暮すやうな高遠へ配流といふ貧乏籤を抽いてしまったのである。併し絵島はそれを少しも怨まずに「世の中にかかる習ひはあるものを、許す心のはてぞ悲しき」と自分を責め、更に「浮世には又かへらめや武蔵野の、月の光りの影もはづかし」と断念して、牢舎に等しいやうな花畑(今の板町、始めは町外れの火打平に置かれたが、享保四年三月に花畑に遷された)の仮寓で死んだ。時は寛保元年四月十日、享年六十一であつた。内藤子爵家には絵島に関する詳細なる記録が残つてゐるが、それを掲げることは見合せる。ただ最後まで気の毒であつたのは、絵島は死んでも科人のこととて、内藤家でも勝手に埋葬する事が出来ず、幕府に届けて検視を乞うた為めに、幕府から平林太郎右衛門と杉浦惣十郎が出向いたが、それやこれやで一ヶ月余も絵島の屍体を塩漬にした一事である。美人薄命とは実に此の事である。絵島は学問好きでよく読書したが、内藤家の附人が何か本でも読んで徒然を慰めるやうにとすすめると、それでは朱子語類をお貸しくださいと云うて附人を驚かした話も残つてゐる。また絵島は非常に潔癖の女で、廁へ入るごとに音のするのを恐れ、手水鉢の口を捻つて水音のするうちに用を便じたと伝へられてゐる。遺骸は同町の蓮華寺に葬つた。これは絵島は法華信者であつたからである。今に同寺の七面堂の傍らに信敬院妙立日女大姉と彫つた、小さい石碑の下に永い眠りをつづけてゐる。