二、大名三頭を苦しめた流謫事件

朝妻船の倡歌を残した浮世絵の天才英一蝶が、遊び仲間の仏師民部、及び村田半兵衝と共に召捕られて三宅島へ流されたのは、元禄十一年十二月二日の出来事である。

一蝶の流罪の理由に就いては、諸説紛々たるものがあるも、煎じ詰めれば愛欲の以外に出ぬのである。元来、此の三人は今でいへば高等幇間のやうなもので、世間見ずの大名を取巻いては日夜とも狭斜の巷に出入し、酒に興じ花を折ることを営みとした、謂はば、他人の世帯崩しを渡世としたのである。従つて三人とも世評は散々なものであつたが、殊に共謀してぼんくらの大名を三頭まで放蕩者にした事件があつたので、遂に幕府から睨まれるやうになつたのである。そしてその第一の大名は井伊伯耆守であるが、此の家は極めて内福であつて、家督相続の折にお納戸金三万両の譲りを受けたのを三人して取巻き、吉原へ引ッ張り出し、一度の遊びが百両づつと云ふ駄々羅遊びをやつた。元禄の百両といへば昭和の三千円にも相当するほどの大金である。殊に或年の名月の夜に、井伊侯が一蝶に命じて月見の小唄を作らせ、市川検校の節附、近藤検校に歌はせたが、此の謝礼に金三百両を費したので問題となり、三人は井伊家から出入を止められてしまつた。第二は六角越前守であるが、これも吉原で馬鹿を尽させた上に、菱屋の遊女小幡を落籍させたが、越前守は妓楼からの帰り途に吉原田圃で何者かに殺されてしまつた。大名ともあらう者が悪場所戻りに殺されるとは、余りと云へば不面目の至りとてこれも大きな問題となつた。第三は本庄安芸守をそそのかして同じく吉原へ連れ出し、茗荷屋の花魁大蔵を金千両で身受けするとて一割の百両だけ天窓を刎ねた。然るに此の安芸守は、時の将軍綱吉の生母である桂昌院の甥に当るので問題が八釜しくなつた。全体、桂昌院は初めはおくにと称し京都の八百屋太郎兵衛の娘であつたが、三代家光の鼻毛を読んで綱吉を産むだので、親爺の八百屋が一万石の大名と出世する。その兄の子の安芸守であるから桂昌院も棄てて置けず、役向の者へ沙汰したものと見え、三人は忽ち召捕られて入牢の身となつた。それを三人とも持病を言ひ立てて仮出牢を許して貰つたのはいいが、性こりもなく又々吉原へ入り浸つたので再び召捕られ、一蝶は三宅島へ、民部は八丈島へ、村田は新島へ流された。

一蝶は浮世絵の名手とて、俳人其角とも交りが深く、島に往く折り老母の身の上を頼み、且つ鯵の腹に笹の葉を入れた乾物があつたら、無事に島で暮してゐる証拠だと思へよと約束して別れた。其角は魚河岸の人々に頼み、約束の乾物を獲て「島むろで茶を申すこそ時雨かな」の句を詠じたと伝へられてゐる。在島十年にして赦されて江戸に帰つたが、その時は其角は既に故人となつてゐた。島に居て描いたものを特に「島絵」と称し、今に珍重されてゐる。民部は仏師のこととて八丈島に居る間に仏像五百体を彫刻して島人に分け与へ、これも後に赦されて江戸に戻つた。村田は「色の村田の中将」と小唄にまで歌はれた美男であつたから、定めて島でも持て囃されたことと思ふ。

ここに流人の島における性生活に就いて簡単に述べる。八丈島は一に女護ノ島と云はれただけに、男子よりも女子が多く、且つ極めて古い母系制度が残つてゐた。三宅島にせよ新島にせよ、多少ともその風俗が存してゐた。それに洋上の離れ島とて、他国人の顔などは当時としては流人の外には、半年たつても一年たつても見ることが出来ず、明けても暮れても波の音ばかり聴いてゐる生活の単調は、かなり島の人達を退屈させたものである。そこへ流人ではあるが内地から往くのである。さうすると兎に角に内地人に対する尊敬と好奇とから、島の女達の心は動かざるを得なかつたのである。実際、流人でこそあれ内地人は知識に於いても仕事に就いても、島の人に較べると格段の相違があつた。屋根の葺き方も、豆腐の拵へ方も、更に豚の飼ひ方までも、皆んな流人に教へられたのである。島にとつては流人は文化の輸入者であり恩人である。殊に女子が余つてゐる土地とて、よくよくの極悪人でない限りは、女に不自由しなかつたやうである。昔話に八丈島へ和船が着くと、島の女達が自分の草履を争つて浜へ並べて置き、それを履いた男を自分の亭主として家へ迎へたとあるが、これは必ずしも虚談では無かつたのである。島には貸妻とて自分の女房を旅人に貸す風俗さへあつた。古い八丈島の見聞記に「国衆(内地人)が島の家に入れば、その家の亭主の女房を妻にする習ひより、女房共は天道様へ祈りをかけ、我家に来るやうにと願ふ。さて国衆が来るとその家の亭主が出て、お婿入り忝けなし、帰国まで緩々逗留あれと、余所へ赴き年月を送る」とある。随分、誇張した書き振りではあるが無根だとばかりは云へぬのである。併しこれは大昔のことであつて、近年に改められたことは勿論である。流人の多くは斯うして性生活には案外気楽であつたらしい。