一、官女五名と公家五人の遠島事件

大内山に仕へた五名の官女が八丈島へ、八名の公家(此のうち二名は死罪)が各地へ遠流された事件が、慶長十四年十月に裁許が確定してそれぞれ処分された。此の事件は我国としては実に空前にして、然も絶後とも云ふべき大椿事であつた。

事件の起りは堂上の歯医者であつた兼保備後守頼継が、その妹の讃岐局が官女として羽捩りの利く所から増長して、同気求むる猪熊侍従教利と牒し合せ、九重の雲深き殿上人の風紀を掻き紊したのである。

全体、此の猪熊侍従は札付の淫蕩家であて、既に豊太閤時代においても、一度不行跡の事が露顕して問題となつたが、猪熊の夫人は秀吉が片腕と頼んだ加州金沢の城主前田大納言利家の孫女であつた為めに「以後は屹度気を附けよ」位の事で済んでしまつたが、俗に雀百まで踊りを忘れずの譬で、兼保と心を併せて猖んに好色の若い公家を誘惑した。そしてその魔の手にかかつたのは大炊御門左中将頼国(卅二歳)烏丸左大弁光広(卅一歳)徳大寺少将宜久(廿六歳)飛鳥井少将雅賢(廿五歳)難波少将宗勝(廿四歳)花山院少将忠長(廿一歳)松木少将宗澄(年齢不詳)の七人であつて、その相手 となつた官女は、兼保の妹の讃岐局を首めとして、広橋局(広橋大納言兼勝の女)権の介(中納言通勝の女)中内侍(水無瀬中納言の女)唐橋局(唐橋殿の女)の五名であつた。

公家の疲弊時代、それは室町期の末頃が絶頂であつた。傘張りの内職をしたり、平常衣まで質に入れてしまつて、蚊張を着て夏中を暮した公家も、江戸期になると些末ながらも俸禄があつたので、多少とも生活に余裕が出来て来ると拱手空職にゐた閑人だけに、浮気の蟲が天窓をもたげて、源氏物語や枕ノ草紙で読んだ事を実地に遣つて見たくなり、慶長十一年三月頃から、歌合の艶書合のと口実を設けて男女が集り、酒興に耽り淫欲を恣にした。然るに此の醜声が外に漏れ、京都所司代板倉勝重の知る所となり、先づ元兇の兼保頼継を召喚して訊問すると、忽ち白状してしまつたが、さて何を云ふにも官女と公家に関する事件とて、流石に老巧なる勝重も一存で取計ふ事も出来ぬので駿府へ出かけ、大御所家康に事情を具して裁断を仰いだ。そこで公家のうち猪熊と兼保は死罪に行はれ、残りのうち花山院は胡沙吹く蝦夷の松前へ、大炊御門と松木の両名は不知火燃える筑紫の硫黄島へ、飛鳥井は隠岐、難波は伊豆へ、共に遠流され、烏丸と徳太寺の両人は微罪とて恩兔され、官女五名は八丈島へ流されることとなつた。

かくて官女五名は慶長十四年十一月朔日に、青網のかかつた駕籠に乗せられて京都を出て、同十三日に駿府(今の静岡)に着き、それから江戸へ送られ、更に遠島船で一先づ三宅島に上陸させられた。これは冬三月は風が強く波が高いので、八丈島まで直航することが出来ぬため、翌年の中春まで此処で風待をするのが例となつてゐた。既に前年同じ八丈島へ流された、関ヶ原の敗将浮田大納言秀家の一行も此の通りであつた。それで翌年の三月に愈々八丈島へ護送されたが、当時、此の島には人家が尠く、彼方の山陰に五軒、此方の原中に七軒と云ふやうに、それこそ鳥も通はぬ絶海の孤島であつ た。その嶮阻な山道を辿つたり、身丈も隠れるやうな草原を歩いたりして、漸く定めの場所に小屋を掛けて住み佗びることとなつたが、幕府の掟として流人には一切絹物を許さぬので、昨日まで身に纏うてゐた綾織や綸子の肌着まで剥ぎとられて木綿の古衣二三枚づつ着て、野に山に、又は浜へ出て食物を拾ひあつめ、松吹く風にも磯打つ波にも胸を痛め、泣きの涙で日を送つたとは、哀れの次第であつた。

硫黄島に流された大炊御門と松木少将とは、後に甑島に遷されたが、此処で大炊御門は島士の梶原藤右衛門の娘を妻とし一女を儲け、寂しいうちにも家庭らしいものを造つたが、慶長十八年に三十七歳で諦地で歿した。その後家さんを松木少将が引受けて二女一男を挙げたが、これも特赦にも遇はずして島で死んでしまつた。今に甑島の西昌寺に無縁となつた二人の墓が残つてゐる。花山院少将は松前へ流される筈だつたが、罪一等を減じられ陸奥の黒石町に遷され、ここで二十七年の長い歳月を送り、寛永十三年に赦兔されて京都へ帰つた。此の間種々艶葛藤もあつたが、後には津軽藩主の津軽信敬の女を妻とした。