家慶の治世において、水野越前守忠邦が、所謂「天保の大改革」を断行したに就いては、多額の金銀財宝を大奥の女中に賄賂として贈り、更に家慶の最も錘愛したお美代の方の歓心を得たればこそ、あれだけの手腕が揮へたのである。
この反対に、賢相松平定信(楽翁)が、執政半ばにして退職しなければならぬ破目に陥つたのは、全く大奥の怨恨を買つた為めである。徳川も十三代家定となると、内憂外患で、そろそろ幕府の屋台骨がグラつき始め、それに家定は親代々の淫蕩が報いて来て、生れながらの癇持ち―俗に、「首ふり将軍」と云はれたほどで、大奥の話も滅ッ切り寂しいものになつてしまつた。