十代家治は、権臣田沼意次に縻政を委せ、所謂「田沼時代」と称する混濁せる世相を示し、内寵にお千尾の方があつて、多少の彩りを添へてゐるが、徳川将軍としては先づ女難の少い方であるが、その代り子の十一代家斉に至つて、大奥の情海の波は天に冲せんばかりに搖蕩し、全く空前絶後とも云ふべき肉欲の天国を現出した。
家斉は一妻二十一妾を有し、此の間に五十五人の子供(そのうち三十人は死産早世)を粗製濫造した。種彦の書いた「田舎源氏」は、家斉の大奥生活を写したことは世人の知る通りで、然も掛り役人も余りの多産に、後には名前を付けるに困難したと云ふことだ。
人間の子供も、犬や猫の子のやうに生みつ放しで済むのなら骨も折れぬが、成人させた上に、一々聟だ嫁だと始末をつけてやらなければならぬから厄介千万だ。将軍家斉も此の子供の始末にはかなり恩案の首を投げて見たり、又は困却の手を椣いて見たりしたが、外に良い工夫もないので、片ッ端から二百六十余大名のうちへ天くだり嫁や、押つけ婿で埓を明けた。
併し、此の嫁や婿の白羽の矢を立てられた大名こそ迷惑の話で、これが為めに藩の財政を苦しめたり町人から借上金をしたり、稀には水戸の徳川家のやうに騒動を起し、一藩の決議をもつて押しつけ婿を拒絶するのもあつた。家斉将軍も飛んだ罪作りをしたものである。
十二代家慶も父に劣らぬ子福者で、従つて内寵も夥しく多かったが、同じやうな事を書くのも気がさすので見合せた。