吉宗には嬖妾が七人あつたが、その中のおすまの腹から産れた家重が、九代の将軍となつた。然るに、此の家重は父に似ぬ暗君で、十三歳の腕白でゐながら早くも女の味を知り、それ以来引つづいての漁色のために、十七歳の若さでありながら、今日で云へば脳神経衰弱に陥つてしまつた。
そこで、父吉宗も心配する、侍臣も憂慮して、武芸や鷹野をすすめて見たが、一向にそんな事に興味がなく、相かはらず鷄障の奥で、伐性の遊びに耽ると云ふ自堕落さであつた。そんな訳で、当時の賢宰と呼ばれた老中松平乗邑も持て余し、これは奥方を迎へたらば、少しは箒も治るだらうと、京都の伏見宮の姫君比宮の御降下を願ひ御台所とした。 それで家重の品行も大いに改つたところ、比宮が二年の後に、産褥熱で御子と前後して薨去したので、又もや家重の官能病が再発してしまつた。此の頃の家重の左右には、京都から来た梅溪中納言の女お幸、日本橋の呉服屋の娘おさよ、町医者の娘のおくめなどを主なる者にして、此の外にもうようよするほど侍つてゐたが、今は大略にとどめる。
かかる次第で、父吉宗も、一度は家重を廃嫡しようとまで考へたのであるが、一たん世子としで西の丸へ直したものを、さう手軽に動かす訳には往かぬので、そのまま九代の将軍としてしまつたが、家重は遂に内損のために身心を労し、壮年で歿した。