七代家継が死ぬと、将軍の跡目相続に就いて、大奥は大御台所派(家宣の正妻)と、月光院派との二つに分れて、かなり激甚なる暗闘明争が行はれた。
そして大御台所派は、家宣の弟である松平右近将監清武を擁し、是に対して月光院派は、紀伊の当主であつた徳川吉宗を推した。これには尾張の徳川宗春も野心があり、三ツ巴となつて辷つた転んだの結果が、水戸副将軍の働きで天下は吉宗のものと定まり、八代将軍となつたので、月光院派が勝つて大御台派が負けてしまつた。
吉宗は苦労人だけに、中興の名君ではあつたが、女の方へかけても流石に血筋だけに、かなりの敏捷さを示してゐる。彼が風呂番の端女である伊奈郡代奉行の手下たる小者の妻に懸想し、無理に離縁させて、枕の塵を払はせた事件に就いては、曾て管見を述べたことがあるので省筆するが、これに反して、吉宗と月光院の関係だけは特筆せねばならぬ。
吉宗と月光院-それは何れが先に謎をかけたか、それとも双方からの歩み寄りか、その辺は明瞭に知ることは出来ぬけれども、私の考へるところでは、月光院は目先の見えた女である上に、才物の間部詮房が付いてゐたのであるから、恐らく詮房の指金で、月光院の方から秋波を送つたものとして差支ないと思ふ。
吉宗は将軍職に就くと、従来の秕政を改め、殊に大奥の経費に大鉈を揮つたが、独り月光院の手当だけは従前通りで、少しの削減も加へず、詮房に対しても役目は取り上げたが、食禄五万石はそのままの所から察すると、私の此の考へは間違つてゐぬやうである。