詮房は、家宣の生前から大奥を家とし、奥女中を撫で斬り(尤も彼は無妻であつた)してゐたのであるが、家宣が荒淫の為めに天寿を損て、七代家継が五歳の幼齢で将軍となつたので、御守役と称して奥御殿に起臥し、家に帰ることは年は一二回しかなかつたと云ふ。それに家宣の寵愛を一身に集めてゐた左近の方は、家宣に死なれた時が二十六の年増盛り、殊に将軍家継の生母と云ふので、飛ぶ鳥も落すばかりの勢ひ。此の月光院と、詮房は関係してゐたのであるから、自邸へ足が向かぬのも無理もない。
月光院は数奇なる運命を有した女で、按摩の玄哲といふ者の娘と生れ、忠臣蔵で有名な浅野内匠頭長矩の奥方瑤泉院に仕へて、お蘭と称してゐた。然るに、内匠頭が殿中で刄傷、身は切腹、家は断絶、奥方も実家へ引取られると云ふ騒ぎで、お蘭も暇が出て家宣の桜田邸へ奉公に上り、お手がついてお部屋様となり、親爺の按摩が御家人に立身し、叔父の小僧按摩玄斉は旗本に出世して、彩雲一門に棚引くと云ふ次第であつた。若し浅野家が栄えてゐたら、侍女のお蘭で一生を送つたかわからぬ。人間の運ほど、不思議なものは無いと考へざるを得ないのである。
この月光院―冬の雪の日などは、詮房も同じ炬燵へ入つて差向ひ、盃の遺り取りをしたり、痴話つたりしたと云ふのであるから、その関係の一と通りや二た通りでなかつたことが窺はれるのである。
処が好事魔多しと云はうか、花咲いて風雨の恨みありと云はうか。将軍家継が此の二人の夜遊びから風邪をひき、今ならば急性肺炎と云ふやつで、七歳で以てコロりと死んでしまつた。ここで又々、継嗣問題が起つて内紛を生じ、月光院が辣腕を揮つて、八代将軍吉宗を擒にすると云ふ段取になるのである。