家宣の愛妾のうち、最も君寵をあつめて威勢を振つたのは、左近の方(後に月光院と云ふ)であるが、この方には書くべき事件が多くあるので、後廻しとし、その前に他の一二に就いて略述する。
全体、家宣の御台所は近衛基煕の姫君で、煕子と云ひ、十七歳で輿入れしたが、女の子を一人儲け、それも早世してしまつたので、淋しい生活を送りつづけてゐた。如何に家宣が剛の者であつても、百人からの手かけ目かけがあつては、御台所へまでは廻りかねたらうから、その生活の淋しくもあり、痛ましくもあつたことは、夢に君王を見て、覚めて後驚くの境涯を体験したものと想はれる。
これに反して、家宣の最初の妻は右近の局(町医者の娘)で、是は十三の折に桜田御殿にあがり、家宣の愛を得て若君(但し夭死)を生んだので、お部屋様(将軍の愛妾は、子を生まぬうちはお部屋様になれぬ掟であつた)となり、氏なくして玉の輿に乗つたので、親爺の町医者どんに二百人抉持を賜り、兄の道楽者も召出されて七百石の旗本と立身するなど、尻の光りで飯を喰ふ蛍武士が出来あがつた訳である。
その次は、新典侍と称する公家の池園中納言秀豊の女(高潮翁は養女だらうと云うてゐる)であるが、これも二人の若君(共に早世)を産んだが、妾運拙く、後には京都へ帰つてしまつた。