家宣の寵臣に、問部越前守詮房と云ふがあつた。恰も、綱吉における柳沢美濃守吉保と同じである。詮房は能役者の子で、十三四歳の頃から家宣(当時は綱豊と称した)に仕へて、大いに気に入られてゐたが、これは疑ひもなく男色の契りがあつたからである。それ故に、詮房は一代のうちに、僅に百石の小身から五万石の大名にまで出世し、家宣の死後はその側室は勿論のこと、多数の奥女中を片ッ端から征服したが、それは後に廻して、先づ好色将軍家宣の閨門に就いて記する。
家宣の内寵一百人、迚も名前だけも書き並べることは出来ぬが、斯うして沢山の傾国的の美人を集め
その肉園のうちに身を没して、吹上の御庭で昼夜をわかたず船遊山をなし、四季を通じて歓楽を恣にしたのであるが、従つて毎日のやうに、大奥で芝居興行をする。歌舞音曲を演じたので、それ等の女役者や女芸人の中には、多くの男役者や男芸人が変装して入り込み、二日も三日も、奥御殿に泊りつづけて、奥女中どもの相手になつたのであるから、その淫蕩気分は千代田城の淑房に横溢してゐたのである。
その参謀長は、言ふまでもなく間部詮房で、彼は渾身の智慧袋を紋つて、江戸中から美人を探し出し、それで足りぬと京都へ人を派して艷容を蒐めさせ、更に遊びの趣向も、月に花に工夫を凝し、目先を変へて家宣の歓心を買ふに努めたのである。
驚き入つたる男があつたものだ。