六代家宣は、徳川十五代の将軍中でも、稀に見る好色家であつた。寵愛を受けた女子が百名に余り、大奥の紊乱もその極点に達したのである。そして、此の淫蕩の血は、全く父綱重のそれを伝へたものである。
将軍とか大名とか云ふ有閑階級の子供は、古今を通じて性に対する限覚が早い。大昔の話をすれば、、源実朝が自分からすすんで妻定めをしたのは一三の年で、然も足利義兼の女を嫌つて、防門大納言信清の娘を択んだのであるから、その早熟なること実に驚くべきものだ。水戸光圀が侍女に手をつけたのも一四五の悪戯盛りであるが、甲府綱重はこれ等にも増して、僅に一二歳の腕白者でありながら、十九歳の侍女おほらを妊娠させて産れたのが、即ち将軍となった家宣なのである。
それで綱重の此の早熟は、単に遺伝とのみ見るべきかと云ふに、高瀬羽皐翁の考証によると、綱重は父家光の四十二の二つの子であつたので、その養育方を伯母の天寿院に託し、此の伯母の許で、成人した。
然るに、此の天寿院こそは豊臣秀頼の妻であつた千姫の後身で、坂崎出羽守を嫌つて本多中務に惚れ、大騒ぎの後に、彼の「吉田通れば二階から招く、しかも鹿の子の振袖で」と唄はれた吉田御殿の女主人公で、淫奔度なしと云ふ女性であるから、これに養はれた綱重の性教育が、どんなものであつたかは想像に難くないのである。
此の天寿院が、後に常陸へ押し籠められ、同地で死んだ事情に就いては知らぬ人が多いが、これは余事になるので省略する。