五、将軍の継嗣問題と義公の殊勲

綱吉には男子が無かつたので、六代将軍の相続問題に就いて又もや騒動が起りかけた。即ち柳沢吉保は、その子吉里は綱吉の落胤だからとて、それを推さうと企て、側室お伝の方は、自分の生んだ女子が紀州中納言綱教の夫人となつたので、此の綱教を将軍職に直さうと謀り、一時は綱吉も心が動いて、綱教に譲らうかと考へるやうになつた。

すると又、そこへ水戸の綱條の家来である藤井紋太夫といふ策士が飛び出して来て、柳沢を説いて綱條を推立てんと策動した。それを綱條の養父である水戸光圀が知り、隠居の身ながらも江戸に出て小石川の藩邸で能楽を催し、紋太夫を楽屋で手討になし、柳営の衆議を一決して、甲府宰相綱重の子である綱豊(即ち綱吉の甥)を、将軍の継嗣とした。此の綱豊が六代家宣なのである。