四代家綱は、父家光とは異つて、極めて平凡な生涯を送つただけに、大奥に就いても別段に取り立てて記するほどの事もないが、更に五代綱吉と来ると、柳沢騒動の主人公だけに、書かねばならぬことが沢山ある。
全体、家綱には子が無かつたので、彼の病気が漸く重くなるや、世嗣問題が、重臣の間に議せられるやうになつた。それは、家綱には二人の弟があつて、兄を綱重(甲府宰相と云ふ)弟を綱吉(館林宰相と云ふ)と称したが、綱重は先年自棄を起した自殺してしまひ、今は綱吉だけが残つてゐるので世嗣はこれも内定してゐるのを、時の大老であつた酒井忠清が、下馬将軍と綽名されるほどの勢力を揮ひ、
「将軍家綱は奥女中に関係し、今その者は姙娠してゐる。それにも拘らず世嗣を定め、後に男子が生れると大変であるから、鎌倉募府のそれに倣ひ、京都から堂上家を迎へて将軍としよう」と言ひ出したので、事頗る面倒になつたのを、老中堀田正俊が此の議を排し、家綱の内命を承けて、綱吉を将軍に立て、酒井忠清を免職してしまつた。忠清はこれが為めに後に自殺したが、然し奥女中の一件は、全くの出鱈目でもなかつたと見え、その女が姙娠五ヶ月であつたのを水に流したと伝へられてゐる。
斯うした内情があつて、将軍になった綱吉、大の学問好きであつたが、迷信が強く女房狩が得意で遂に有名な柳沢騒動となり、綱吉は正妻に殺され、御台所も自刄したとまで伝へられてゐるが、これだけは事実でなく、綱吉も、正室も、共に疱瘡で死んだものである。
そして綱吉は、柳沢吉保の邸へ、経書の講義に事よせて、一年間に三十回も出かけて鼻毛を読ませたなどは振つてゐる。然も相手の女は、三田村鳶魚氏の研究によると、初めは牧野備後守成貞のすすめたお伝の方(黒鍬組の娘)であつて、後には、牧野の妻阿久里夫人だと云ふことである。綱吉は、立派な有夫姦であつた。牧野は献妻までして臣下の道を尽したのである。臣となる又ツライかなである。