家光は性得の男色好きである上に、女色の方でも、伊勢の慶光院の比丘尼を引摺り込んだり、京都の八百屋の娘に手をかけたり、その淫蕩生活が彼の寿命を縮めたとまで言われてゐるが、ただ、ただ家光の大奥に就いて考ふべきことは、徳川将軍も三代にして基礎が築かれたと同時に、その閨門に京都の公家の勢力が入つて来た点である。
家康も秀忠も、三河の土臭い郷士の成り上り者にしか過ぎないので、その妻妾も日向埃の匂ひする地女であつたが、それが家光となると、正妻は摂家の一なる鷹司信房の姫君(但し家光とは不仲で、夫婦の交りは無かつたと云ふ)となり、将軍の僣上癖と、支配欲とは、いやが上にも増長するやうになつた。
それと同時に、斯うして東都から嫁して来る姫君たちは、必ずや二三人の美人を侍女として連れて来る。それがまた代々の将軍の艶種となつたのであるから、徳川氏の大奥を考へる者は、此の点を注意せねはならぬのである。