二、女房に天窓のあがらぬ秀忠

二代秀忠は、凡庸の主であつただけに、常に女房から天窓を抑へつづけられてゐた。此の女房は、太閤秀吉の嬖妾であつた淀君の妹で捷子と云ひ、始め佐治一成に嫁し、更に丹羽秀勝に適き、三度目に秀忠と婚したと云ふ古女房である上に、秀忠との間に、家光を始め、男女八人も子を儲けたので大威張りであつた。

秀忠も始終一目置いてゐた。それ故に、秀忠も此の女房に巻かれて家光を廃して忠長を立てようとして騒動を惹き起したのである。秀忠には、武州板橋在竹村の大工の娘で、お静といふ気に入りの女があつた。これは、風呂番かなんかの身分の軽い者であつたのに、秀忠が手を出して姙娠させた。それを正妻の捷子が知つて角を出し、その女を殺してしまふと駄々をこねたので、秀忠も持てあまし、遂に女を備勝院比丘尼に預けてしまつた。

此の腹に生れたのが、奥州会津の藩祖保科正之である。秀忠はこんな訳で、余り女道楽が出来ずに死んでしまつたのである。