一、家康は二妻九妾の所有者

家康は、前に築山御前(関口氏、余りの嫉妬やきの為めに殺された)後に、朝日の方(太閤秀吉の妹で再婚者)の二正妻の外に、九人の妾があつたが、その九妾のうち、三妾まで後家を引ッ込んだのである。

家康の女好きは有名なもので、昔から「閨門の修まらぬ聖人」と評されてゐるが、殊に、後家好きであつたことも著聞してゐる。

家康は天正四年に、三河広瀬城主三宅正光に詰腹切らせて妻を奪ひ、甲州の雄将馬場美濃守の娘を手に入れようとして、鳥井元忠に横取りされたこともある。そして三後家の妾とは、おまんの方(結城秀康の母)阿荼の局(越後騒動で有名な松平忠輝の母)次は名は伝はらぬが、二代秀忠の母であつた西郷義勝の後家である。

この三後家のうち、最も家康のお気に入りは阿荼の局で、これは遠州金谷の百姓八と云ふ男の女房で、一人の娘があつた。此の女房が美人の為め、所の代官が横恋暮し、不法にも、亭主の八を無実の罪で責殺して女房を従はせようとした。そこで女房は、家康が鷹野に出た折に直訴したので、家康は代官を死罪に行ひ、その女房を側室としたのである。