一三(明治元年の五月、彰義隊も…)

明治元年の五月、彰義隊も官軍のために打破られ、戸田も戦場の露と消えたが、消えないのはお玉の評判、何でも馴染みにさへなれば、男の紋を身体に彫るといふ風変わりの芸妓、己も道楽した記念に一つ紋を彫らせようか。己も我れもと奇を好むは人情の常、此の噂が江戸中に広がると、お玉は眼の回るほどの繁昌さ、僅一年ばかりのうちに、紋の数は両の腕から背中、両股へかけて百あまりも彫り散らされた。然もそれが或は朱に、或は墨に、或は青に彫られてあるので、実に百繚爛といふ美しさであった。

「あら、姐さんの身体は奇麗だことね」

などと荼屋の女中や、雑妓が言囃す言葉に好い気になつて、遂にお玉自身も、紋の数の殖えるのが面白くなつて、ここに始めて千人信心の宿願を思ひ立ち、衆生斉度に出かけたのである。そしてその宿願を果たしたのである。

お玉の紋を彫った刺青師の語るところによると、始めのうちは両腕から背中へかけて、紋もやや大きく仕上げて来たが、段々と紋の数が増すにつれて、背中は勿論のこと臀部まで彫つたがそれで足らず、両股から腹へかけ、苟も針を入れて差支ない処だけは、一寸の隙もなく彫り小さくして、後には紋と紋との間から、指の股まで彫つたといふことである。

かくて紋散らしのお玉の名は、蕩児の仲間には活きた紋岐となり、下谷の名物として伝へられたのである。

(犯罪科学二ノ二)