然るに此の頃、江戸市中し刺青といふことが流行して、火消人足、鳶の者、肌あひの諸職人は言ふに及ばず、遂には堅気の商人まで、これを真似るやうになつて、朝湯へ徃つても、身体に倶利伽羅紋紋の刺青が無いと、幅が利かぬといふ有様で、稀には刺青のために財産を失ひ、生命を亡すほどの気狂ひさへあつた。そして此の流行は早く花柳界の方面にも及び、白い腕に命と剌った芸妓も尠くなかつたのである。
刎ねッ返りのお玉も、いつか此の流行を追うて、上野に隠れてゐた時分、徒然のあまり学僧の紋と自分の紋とを、覚束ない素人刺りではあったが、右の腕に比翼に彫りつけ、これ見よがしに朋輩の間で惚気ちらしてゐた。兎角するうちに明治の維新で、世の中が騒々しくなり、彰義隊の連中が上野の山に立籠り、今にも血の雨が江戸に降らうと云ふ大混雑、その混雑の中に彰義隊の小頭で戸田金吾といふのが、此のお玉のところへ遊びに来て、深間となるにつれ、その紋のことをを耳にして、己への心中立に己の紋も彫れと頻りに強請む。元より汚れた身体、二つ彫るも三つ彫るも同じこと、これも商売冥利とばかり彫りつけた。