明治十二年に母のお菅が没したので、三草子は髪を落して松の戸と号し、深川の住居を引き払つて京橋区南八丁堀に移り、専ら女流歌人として門人に教へてゐた。その頃の彼の情人は、明治の俳壇に点取宗匠の巨人として知られた故夜雪庵金羅であつて、然もこれが千人信心の最後の結願であつたと聞いてゐる。
千人中の一人であつた某氏の談を伝聞すると、三草子は大願成就した祝儀とて、現存せる関係者に赤の飯を配り、関係者は吉野紙を答礼としたと云ふことである。一時、歌壇に才名を馳せた松の戸三草子の闇黒面は、更に千人信心によつて彼が非凡の活菩薩なることが知られた。此の恋の女主人公であつた三草子も晩年は中風にかかり、半身不随の病躯を八丁堀の陋屋に支へてゐたが、大正三年八月に八十三歳を以て帰幽した。俳人芭薫が「さまざまに品変りたる恋もして、浮世のはては皆小町なり」と詠じたやうに、これが彼の女が八十年の生涯で体験した哲学であつた。
芸者お玉の生れは、ただ江戸とばかりで外に多く知ることが出来ぬ。従つて何故に芸妓になつたかと云ふやうな事も明かでないが、之は察するに別段に大した理由のあつた訳ではなく、幕末の江戸気質、中流以下の生活をしてゐた者なら、娘を持てば芸妓にするのが習ひとなつてゐたので、芸者となつた位のことと思ふ。
それで此のお玉は下谷同朋町にゐて、顔もよし腕もよし、座敷の賑やかなのが売りもので、かなり流行したものであつた。所が安政年中に、お玉の情夫であつた梅津の藤五郎といふ博徒が、贋金を遣つた罪で牢に入れられ、既に小塚原で斬首にもならうとしたのを、同じお玉の馴染客であつた上野東叡山の寺侍であつた杉野貞之進といふが聴いて不便に思ひ、どこを怎う手を廻したものかその藤五郎を助けてくれたので、お玉もその恩義に感じて貞之進と深い関係を結ぶやうになつた。
すると藤五郎は、義理は義理、恋は恋、恩を被せて他の女を寝取るとは怪しからぬ。それでは遠島船を腰に提げてゐる長脇差の稼業の手前、男が立たぬと立腹し、どうしてもお玉を殺してしまふと付け狙つた。